日本橋~板橋 2006.11.5
いよいよ中山道を夫婦で歩く旅に出る。
とはいえまずは自宅近くの本所吾妻橋駅から地下鉄都営浅草線に乗り、日本橋駅で降りた。
降りたいいものの、そこは日本でも屈指のターミナル駅、出口を探すのに一苦労した上に、地上に出た時には方向を見失っていた。
さんざんさ迷った末にやっと目指す日本橋に着いた。
と言うか、ここは目指す場所ではなくスタート地点だ。
こんなことで京都までたどり着けるのだろうか。
何はともあれ10:24AM、京都に向かって歩き始めた。
だがなぜか中山道は長野県の途中までは北に向かうので、それまでは京都に背を向けて歩くことになる。
違和感を感じながらも神田の駅前を過ぎ、秋葉原のガードをくぐってしばらく進むと東京大学の赤門の前に出る。
徳川第11代将軍家斉は55人の子をもうけるという金字塔を打ち立てたが、その二十一女(!)の溶姫が前田家に嫁ぐ際に建てた朱塗りの門だ。
その赤門の斜め向かいの法真寺は僕の卒業論文のテーマでもあった樋口一葉が隣に住んでいたというゆかりの寺だ。
その先の高崎屋酒店で中山道は日光御成街道と枝分かれして左にそれる。
そこには一里塚もあったらしい。
ここが中山道で最初の一里塚だ。
さらに進むと左手に現れるのが我が母校・東洋大学だ。
しかし卒業から20年、建物は完全に一新され、昔をしのばせるのは狭いキャンパス内の起伏のある地形ぐらいだ。
また学生の服装や髪形もやたら小奇麗だ。
当時の親友Yのような小汚い奴は一人もいない。
その後しばらく国道17号線となったいた旧中山道は巣鴨で左にそれる。
いわゆる“とげぬき地蔵通り”だ。
“おばあちゃんの原宿”として有名なこの通りは、西巣鴨から東洋大学まで徒歩で通学していた僕にとっては通学路だった。
当時も年寄りの人波をかき分けながら通ったものだ。
巣鴨を過ぎた旧中山道は国道17号線を交差して板橋の商店街に入る。
親友Yが学生時代に住んでいた木造アパートを探すと、高層マンションになっていた。
そして地名の元になったという板橋の上で中山道の旅初日を終え、家路についた。