愛知川~武佐2023.10.8
昨夜車中泊した道の駅せせらぎの里こうらから車を走らせ、愛知川駅前の駐車場に駐車する。
5分ほど歩いて、駅からのこの道が中山道に突き当たる地点へ。
7:39AM、16年ぶりにここから先を歩き始める。
10分足らずで「中山道 愛知川宿」というアーチをくぐって愛知川宿に入る。
愛知川宿は車がすれ違うのも難しそうな道幅の街道沿いに旧い建物が点在する。
宿場中ほどにある、2階建ての空きビルが本陣跡。
その隣の旧い洋館は脇本陣跡。
その裏手が愛知川ふれあい本陣という施設で、カフェや滞在施設などが入っている。
是非寄ってみたいところだったが、朝の8時では開店前なので素通りした。
5分ほど進んで、左に伸びる何てことない路地が伊勢に向かう伊勢道だ。
宿場の終わり近くに竹平楼という格式の高そうな料理旅館があり、その脇には中山道ではすっかりおなじみの「明治天皇御聖蹟」という碑がいつもながらの巨大さで建っている。
愛知川宿を出た中山道は国道8号線に合流する。
右手民家の駐車場に一里塚跡の碑がポツンと建っている。
国道が愛知川という川に突き当たる直前の左手に祇園神社がある。
境内の最も川に近い隅に常夜灯がそびえている。
これは愛知川に橋がなかった当時、渡し船の渡河地点を指し示す物だった。
愛知川に最初に橋が架けられたのは天保2年(1831)。
当地の豪商らが資金を出し合い、彦根藩に掛け合って架橋が認められた。
当時としては珍しく橋賃を取らなかったので「むちん橋」と呼ばれた。
明治に入り、天皇巡幸の際車馬が通れる橋に架け替えられ「御幸橋」と名付けられた。
現在架かっているのは昭和36年(1961)竣工の5代目御幸橋。
その御幸橋を渡りながら川面を見ているとレンガ製の橋脚の土台のような物があった。
何代目かの御幸橋の名残だろうか。
対岸の河川敷に下り、こちら側の常夜灯との間に何か街道の名残がないかと捜し歩いてみたが、それらしい物は見つけられなかった。
このあたりは平成の大合併で市町村が変わっているらしく、今現在歩いているところが何という市町村なのかよくわからないが、どうやら愛知川を渡って東近江市に入ったらしい。
東近江の中山道を武佐に向かって歩く。
8:54AM、またも左に伸びる何てことの無い路地のような道が八日市に向かう御代参街道で、「右 京みち」「左 いせ ひの 八日市みち」と刻まれた道標が建っている。
そこから10分ほど歩いて小さな川を渡ったあたりにかつての松並木の名残がわずかに残っている。
このあたりは東近江市の五個荘地区で、天秤棒をかついで「三方良し」の理念のもと販路を拡大した近江商人を数多く輩出したところだ。
9:39AM、常夜灯の背後に屋根を工事中の民家を発見。
そこに立つ常夜灯の説明板ではこの建物を茅葺で風情があると紹介している。
写真もあって確かに茅葺だ。
この工事は茅葺から金属屋根に改修するものらしい。
そのすぐ先には今も残る茅葺屋根の民家がある。
大名家クラスの小休所として使用された片山半兵衛家だ。
いつまでも残しておきたいものだ。
9:49AM、石塚一里塚跡を通過。
そのすぐ先で国道と合流する。
その合流地点には天秤棒をかついだ近江商人のモニュメント。
すぐにまた国道から左のそれて住宅地の中を微妙に蛇行しながら進む。
その先の中山道は新幹線で消失しているので、新幹線のガード沿いの道を歩く。
殺風景な道を500mほど進むと左に分かれる道が現れる。
それが旧中山道なのでそちらに進む。
右手の奥石神社の前に「老蘇の森由来」という説明板があったので読んでみたところ、冒頭に僕にとっては衝撃的なことが書いてあったのでその先の説明はほとんど頭に入らなかった。
それによると、このあたりは「蒲生野」と呼ばれていた。
蒲生野といえば万葉集最大のスター歌人額田王の代表作
茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
が詠まれた場所ではないか!
そして大海人皇子がその歌に返した
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
が詠まれたのもここだということになる。
にもかかわらず、それに関する説明は一切無い。
これはどういうことだろうか?
これくらいのことで大騒ぎするなということか?
それはともかく先へ進む。
11:03AM、街道脇の用水路のほとりに建つ泡子延命地蔵の碑に到着。
説明板には不可解な物語が書いてある。
昔、村井藤斎という物が茶店を開き妹が給仕をしていた。
店に立ち寄った旅の僧に一目惚れした妹が立ち去った旅の僧の飲み残しの茶を飲むとたちまちにして身ごもった。
3年後、その子を抱いて妹が大根を洗っているとその僧が再び現れた。
妹が3年前のことを話すと僧はその子に息を吹きかけた。
すると何とその子は泡となって消えてしまった。
そして西の方にあるあら井とやらの池の中に尊い地蔵があるのでここに堂を建ててこの子のために安置せよと告げた。
なんだこれは!?
余りにも不条理。
妹に何の罪がある?
飲み残しの茶を飲むのがそんなに悪いのか?
ましてや一息で泡と消された幼子は不憫過ぎる。
本当のところはどうなのか。
旅の僧は茶店の娘と遊んだのだろう。
3年後に再訪すると小さな子がいて自分の子だと告げられる。
不行跡の露見を恐れた僧は幼子を亡き者とする。
そして自らに都合のいい伝説を“創作”する。
妹の”内密出産”を恥じていた兄の藤斎もこの物語に乗っかって伝説化や地蔵の建立に一役買ったのではないか。
いずれにせよ哀れをとどめるのは妹とその子である。
地蔵は現在西福寺に祀ってあるということだが、この跡地の石碑も地元の人によって綺麗に掃除され季節の花が供えられていた。
11:13AM、西生来一里塚跡を通過。
5分後、街道右手に武佐宿大門跡の立札が現れてここから武佐宿に入る。
武佐宿も車両がすれ違うのにも難儀しそうな道筋に民家が建ち並ぶ。
旧い建物は見えないが、その街並みは宿場の雰囲気をわずかに残している。
右手の武佐町会館が脇本陣跡で、冠木門で雰囲気を作っている。
そのすぐ先の左に伸びる路地に「←東山道」という立札が立っている。
この細い路地が中山道制定以前の幹線道である東山道ということらしい。
本当だろうか?
その先の旧い洋館(旧八幡警察署武佐分署庁舎)や老舗料亭が建ち並ぶ一角は明治期あたりの宿場の雰囲気を濃厚に残している。
旧道が国道21号線と交わる交差点には享保4年にこの道を象が通ったことが地元中学生が描いたイラストと共に紹介されている。
交差点を過ぎると左側に「いっぷく処綿屋」という無料の休憩所があったので休ませてもらう。
いっぷく処を出るとすぐ右側に本陣跡がある。
往時の建物は残っていないそうだが、その門が往時の雰囲気を伝えている。
本陣跡の向かいには旅籠中村屋の建物が現存して営業もしていたのだが、2010年12月の火災で全焼してしまった。
今は空き地に地元小学生が作成した旅籠屋の説明板がむなしく残るだけだ。
今日の行程も残り少なくなったところで10年来愛用のデジカメCanon PowerShot S100のSDカードの容量が切れてしまったので、こちらも年代モノのiPhone7で写真を撮ることにした。
またまたまた左に伸びる路地に伊勢路を指し示す道標。
これは伊勢・八日市方面に向かう八風街道の道標だ。
このあたりでは伊勢に向かう道が何本も出ているらしい。
11:46AM、西の高札場跡で武佐宿は終わる。
目と鼻の先の武佐駅で今日の歩き旅を終了。
武佐駅から八日市で乗り換えのついでに途中下車して昼食をとり、再乗車して愛知川まで戻って下車、駐車場から車を出して多賀神社で娘の高校合格を祈願してから埼玉の自宅まで帰った。