小金井~石橋~雀宮2024.01.07
小金井駅近くのタイムズに車を置いて、駅から西に伸びる道と日光道中が交差する地点から歩き始めるたのが8:46AM。
住宅街の生活道路を歩くこと5分足らずで小公園に突き当たるので右折してすぐに突き当たる国道4号線を左に曲がる。
するとそこに小金井の一里塚があった。
さっき突き当たった小公園とはこの一里塚だったようだ。
なんと両塚残っていて、その塚の間をかつて街道が通っていた様子が舗装の表面に変化をつけて表現されている。
大変わかりやすい。
これは平成10年(1998)の発掘調査によるものだということが現地説明板に書いてあった。
その説明板には江戸初期に街道が通された時点では地表は現在よりも80cm低かったことなどが図解入りでわかりやすく記されていた。
国道4号線と重なった日光道中を歩く。
ここは既に小金井宿に入っているのだが、そんな雰囲気はない。
この地は下総佐倉藩の領地で、街道右手に見える「御菓子司 橘屋」がその出張陣屋跡らしい。
代官・大槻氏の位牌を有しているそうだ。
その向かい、街道左手の慈眼寺は建久7年(1196)、新田一族の祈願寺として創建された古刹。
江戸期、日光社参の将軍はここで昼食をとった。
そのすぐ先には小金井宿の大越本陣跡。
コンクリートのブロック塀に本陣門のみが往時の威容をしのばせている。
宿場を出て(と言ってもどこで入ってどこで出たのかわからないのだが)、国道をしばらく歩く。
道に面白味は無いが左手彼方に見える山々(男体山、奥白根か?)の眺めが救いだ。
9:35AM、日光道中は国道から左にそれる。
そして民家の生垣沿いの路地を進むことになるのだが、この先は通り抜けできないとのことなので路地には入らずに引き続き国道を歩く。
すると左手に新築なった立派な市役所が現れる。
どうやら旧道はこの市役所で分断されたらしい。
市役所の先まで通り過ぎてから路地を左折すると旧道に突き当たる。
確かにその道は市役所に突き当たっている。
その旧道を日光方面に歩く。
この辺りの道は笹原旧道と呼ばれ、国道が並行する右手(東)はともかく、左手(西)は田園風景が広がり雰囲気は悪くない。
しかし街道右手の林にロープが張ってあり、立て看板に「R6年1月9日から伐採工事の為通行止めになります」とある。
「R6年1月9日」とはあさってじゃないか!
あやうくこの道さえ歩けなくなるところだった。
旧道はT字路に突き当たる・・・ように見えたが、そこに奇妙な看板が建っていた。
注意
下野市日光街道一里塚保存会
これより赤道です。通行は自己責任でお願い致します。
赤道?
自己責任?
看板をよく見ると小さな文字で何やら説明している。
赤道(あかみち)とは、国家が所有していますが道路法の適用のない道路のことです。
赤道とは初めて聞く言葉だ。
確かにT字路と思われた道の向うに落ち葉に埋もれた土の道が続いているように見える。
ガイドブックとして使用している「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道」五街道ウォーク・八木牧夫著(山と渓谷社)には記載のない道だが、折角だから‟自己責任”で行ってみることにした。
木立に挟まれた道らしき所を5分ほど歩くと左手に土の盛り上がりが現れる。
一里塚だ。
令和3年(2021)に保存会が建てた説明板によるとこれが下石橋一里塚だ。
説明板によるとこれは西塚で、東塚も近年まで存在していたが開発により消滅したとのこと。
そしてこの辺りの旧道も藪に埋もれて、西塚もろとも存在が忘れ去られていたらしい。
確かに2020年発行のガイドブックには「雑木林の中に残されているともいうが位置は不明」とある。
それをごく最近になって保存会が探し出してくれたということだ。
素晴らしい。
その道も行き止まりとなるので右に折れてまた国道4号線に戻る。
その国道を2kmほど歩いて石橋宿に入る。
しかしここもどこから宿場だったのかまるでわからない。
ガイドブックによると「井沢写真館」が井沢脇本陣跡らしいのだが、この辺りに写真館はない。
だが、看板はないが造りが写真館っぽい廃屋がそこだと思われる。
ガイドブックによると、そのすぐ先の茶店が井沢本陣跡。
と思ったらその向かいのアパートの敷地に「石橋本陣跡」という標柱が建っている。
本陣は宿場によっては複数あったり、時代によって位置が変わったりするのでどちらも間違いではないのかも知れない。
この本陣・脇本陣の井沢家の祖は宇都宮氏の家臣だったが、慶長2年(1597)の宇都宮氏改易と共に没落してこの地に土着した。
そのすぐ先の開雲寺は、徳川将軍の日光社参の際には「御殿所」となった。
そこから500m先の「くるまやラーメン」で昼食にする。
時間はまだ11時半くらいだったが既に満席で少々待ってからカウンターで食べた。
12:31PMに歩きを再開。
引き続き特徴のない国道を30分ほど歩くと右手の児童公園内に鞘堂地蔵尊というお堂が建っている。
これは康歴2年(1380)の小山宇都宮の戦いにおける戦死者の鞘を村人が拾い集めてここに埋葬してお堂を建てたのが始まりだ。
8代将軍吉宗の日光社参の際にはここが休息所となった。
ちなみにこの鞘堂、女房は「タコドウ」と呼んでいた。
そこから500m先、北関東自動車道の高架をくぐる手前で細い道が右に伸びている。
その道は結城、境、関宿を経て杉戸と粕壁の間に達する結城道(日光東街道とも)。
そしてここは結城道追分だ。
かつては茶屋が1軒あった。
そこから1kmほど先にあるはずの茂原正観音道道標を探しながら歩いていると、それよりも遠くにあるはずの題目碑が先に現れた。
見落としたかと思って引き返すと観音堂は今歩いている国道から東にそれた所にあるという案内標識があった。
この辺りは国道の東を旧道が並行しているようだ。
ガイドブックにはその道の案内はないので、GPSで旧道筋を案内してくれる「日光道中二十一次」というスマートフォンアプリを頼りにその道を歩いてみたが、結局見つけられずに元の国道に戻った。
ところで今歩いているのは国道4号線だが、現地の道路標識では‟東京街道”となっている。
東京街道!
ありそうで無かったネーミングだ。
東京の人は栃木にこんな名前の街道があることを知っているだろうか?
単調な国道を延々と歩き続けて、またもいつの間にか雀宮宿に入ったらしい。
街道左手に「雀宮本陣蹟」と書いた標柱があったので辛うじて気が付いた。
その先、日光道中(国道4号線)と雀宮駅に向かう道が交わる交差点に立派な門と木塀が建っている。
ガイドブックによればこれが雀宮宿脇本陣跡なのだが、門に架かっている表札には「雀宮宿仮本陣」となっている。
「仮本陣」とは今まで聞いたことがなかった気がする。
これまたありそうで無かったネーミングだ。
そしてこの場所を今日のゴールとして雀宮駅に向かった。
今日一日歩いた距離は約13.8kmだが、そのほとんどが何の見所もない退屈な国道歩きで、距離以上に疲れてしまった。