守山~草津2024.2.11
ゆうべ車中泊させてもらった「道の駅かがみの郷竜王」から車を走らせて守山駅近くの駐車場に停め、中山道に向かって歩く。
この道が中山道に突き当たるT字路が今日のスタート地点だ。
今日は守山から草津まで歩く。
草津は中山道と東海道が合流する場所だ。
僕らは中山道と東海道を同時並行して歩いていて、ちなみに東海道はいまだ静岡県の掛川だ。
草津から先はまず中山道として京都まで歩いて中山道を終わらせ、東海道も草津まで来たら再度京都まで歩こうかと考えている。
8:31AM、まだ人通りのない守山宿を歩き始める。
江戸時代には「京立ち守山泊まり」といわれたように、京を出発した旅人にはここ守山が最初の宿泊地であった。
そのおかげで大そう栄えた宿場だった。
守山市では「守山市地区計画の区域内における構築物の制限に関する条例」が平成20年に可決されている。
これは宿場の景観と地域住民の住みよい環境を作ることを自治会と中山道沿いの地権者が誓願した市民条例だそうだ。
その甲斐あってか、現在の守山宿に往時の賑わいはないものの、低層住宅の並びに旧い建物が点在する落ち着きのある街並みを保っている。
歩き始めてすぐの左手にある空き地が本陣跡。
皇女和宮が宿泊している。
この場所は昭和40年(1965)まで郵便局だったそうだ。
本陣跡が郵便局になっているのは、中山道では時々あるパターンだ。
そこから10分足らずで、京都から来るとY字型に分岐する道がある。
これは真宗木部派本山である錦織寺に向かう錦織寺道だ。
そこに石造りの道標が建っていて、「右 中山道 幷 美濃路」「左 錦織寺四十五丁(以下省略)」と記されている。
美濃路とは言うまでもなく、僕らが既に歩いて来た道だ。
こういった道標の表記もいつの間にか京都側から来た人向けになっている。
そのすぐ先右手、浅草雷門のような赤い提灯がかかった年代モノの山門は東門院。
延喜4年(904)開闢、坂上田村麻呂が東征の際、戦勝を祈願し、勝利したので伽藍を建立したという逸話も残る古刹だ。
江戸期には朝鮮使節の宿舎としても使用された。
8:57AM、今宿一里塚に到着。
滋賀県内に唯一現存する一里塚だ。
9:11AM、民家の前に石碑があり、そこには「古高俊太郎先生誕生地」と記されている。
古高は幕末の尊王攘夷派の志士。
しかし新選組に捕らえられ、逆さ吊りにされ、脚の甲を五寸釘で打ち抜かれ、その釘に蝋燭を刺して火を灯すという拷問の末に、京に放火し、混乱に乗じて天皇を拉致するというテロ計画を白状する。
その情報を得た新選組が古高一派の集まる池田屋を襲ったのが世に言う池田屋事件だ。
あのおぞましい拷問を受けることになる人物がここでオギャーと生まれたのかと思うとその赤ちゃんが何だか不憫に思えて来る。
さて、この守山宿は途中で拡張されたせいなのか、宿場の出口がどこにあったのかはっきりしないうちに出てしまっていたらしいのだが、ひとつ気になったことがある。
それは現地にあった説明板のいくつかが守山を中山道の‟最終宿場”と紹介していることだ。
この先京都三条大橋までの間に草津と大津があるのだがこれはどういうことだ?
9:49AM、街道の行く手に高層ビルが見え始める。
あれは草津の市街地だと思われる。
今日はあのあたりまで歩く。
そして9:57AM、草津市に入った。
左からJR東海道本線のガードが迫って来る。
ガイドブックはこの線路で旧道は消失しているのでこのまま直進して陸橋を渡って旧道まで戻って来る迂回ルートを支持しているが、現地で見ると線路の下にトンネルがあって、これをくぐって線路の反対側に出た方が、より旧道に忠実なコース取りに思える。
そこでトンネルをくぐってみると、線路と民家に挟まれた路地の先にもう少し広い道が現れる。
道沿いの民家の風格ある旧さから見て、ここからが旧道ではないかと思われる。
10:15AM、静かな住宅地の生活道となっている旧中山道を草津宿に向かって歩く。
さっきの高層ビルが随分と大きくなった。
その静かな住宅街に伊砂砂神社が現れる。
応仁2年(1468)、近江守護職佐々木高頼の勧請で、当時の本殿が現存する。
よく応仁の乱で焼けなかったものだ。
檜皮葺の威厳ある本殿が住宅街に突然現れるところがさすが近江だ。
旧中山道はさっきから見えていた高層ビルの前を通り過ぎ、商店街を抜ける。
すると正面に鉄道のガードような高架があって旧道はその下をくぐるようになっている。
これがきのうから見るのを楽しみにしていた‟天井川”の草津川だ。
地面より高い位置を流れる川など滅多に見られるものではないので階段を上って高架の上に出てみた。
あれっ?
そう、川がないのだ。
どうやら草津川は2002年に付け替えられ、現在旧河川の高架上は草津川跡地公園として活用されているということらしい。
陽当たりが良く、意外と開放感もある高架上に沢山の人が行き交って活気がある。
そしてこの高架上からはこれから歩く中山道、そして左から合流してくる東海道が見下ろせる。
地上に下りてトンネルをくぐる。
くぐってすぐ左に道標がある。
「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」
とある。
つまりここが中山道と東海道の追分だ。
日本で最もメジャーな街道どうしの追分だが、現地にそんなスペシャル感は薄い。
住宅街の単なる生活道路の交差点にしか見えない。
旧草津川の高架が鉄道のガードに見えて、景観的にはマイナスになってしまっている。
また、トンネルをくぐってすぐ右には高札場跡があるのでここから草津宿が始まるものと思われる。
宿場に入ってすぐ右に田中七左衛門本陣の威容が見える。
現存する貴重な遺構だ。
街道に面する間口の広さで租税が決められていた街道筋では珍しく横方向も広々とした構えだ。
有料で内部公開されているので見させてもらった。
もちろん見応え十分だったが、見学している僕らの中にある疑問がふくらんでいた。
それは館内のどの説明書きもここを「東海道草津宿」と紹介しており、ここから三条大橋までの道を「東海道」としていることだ。
僕らはここから先は東海道であると同時に中山道でもあると考えていたので、まずは中山道として京都まで踏破するつもりだった。
ところが現地に来てみると草津から先はもう東海道という扱いなのだ。
本陣を出てすぐ先左の街道交流館にも行ってみた。
展示を見ながら考えるのはやはりそのことだ。
どうやら中山道はさっきの追分で終わっていたらしい。
守山宿の説明板も守山を中山道の「最終宿場」と紹介していたではないか。
夫婦で相談した結果、この先を中山道として歩くのは無理があるという結論となった。
中山道の旅はここで終了ということにして、ここから先は現在掛川で止まっている東海道の旅をここまで進めてから東海道として歩くことにした。
こうして2006年11月5日に始まった僕ら夫婦の中山道の旅は今日、唐突に終わりを迎えた。
感慨に浸る暇もなかった。
達成感はない。
戸惑いと少しばかりの寂しさを抱えて草津駅に向かった。
駅前の近鉄百貨店のレストランで昼食をとり、JRで守山まで戻り、コインパークに停めてあった車で埼玉の自宅まで帰った。