雀宮~宇都宮2024.01.27

雀宮駅前の前払い制の駐車場に車を停めて600円を支払う。
駅から西に伸びる道を歩いて南北に伸びる日光道中と交わる交差点で準備運動をして、北に向かって歩き始めたのが9:38AM。
日光道中といってもこの辺りはただの国道4号線。
まだ雀宮宿内のはずだがそんな雰囲気は全くない。

雀宮宿

街道右手の鳥居は雀宮神社
長徳3年(997)八幡太郎義家の創建で、正徳3年(1713)に東山天皇から「雀宮」と書かれた「勅額」が下賜されている。

雀宮神社

9:45AM、国道4号線の東京からの距離を表示する標柱が100kmを指している。
日本橋を歩き始めたのが2021年の10月21日。
随分とかかったものだ。

東京から100km

5分ほどで旧道は国道から左にそれて国道と並行する路地となる。

路地となった日光道中

その路地はいつの間にか葬儀場や自動車ディーラーの敷地内を突っ切ってからまた国道に合流した。
僕らは歩いて良かったのだろうか?
もしかしたら不法侵入したのだろうか?
いずれにせよ葬儀中ではなくて良かった。

葬儀場の敷地を突っ切る

その先はまた単調な国道歩きが延々と続く。
救いは時々左手に見える雪を冠った日光連山の眺めだ。

日光連山

10:28AM、街道右手に菅原神社が見える。
この辺りは立場跡だったらしいがそれっぽい雰囲気はない。
領内の名主や町年寄はここで宇都宮藩主の参勤の送迎をしていた。
将軍社参の際はここに仮の御茶屋が設けられた。

菅原神社

10:44AM、「一里」という交差点に着いた。
その名の通りこの辺りに一里塚があったそうだが、鉄道施設で消滅してしまった。

一里交差点

その後国道4号線は右にカーブする4号線と、直進する国道119号線に枝分かれする。
日光道中の道筋は直進なので119号線を進む。


11:14AM、旧道は国道から離れて左に分岐する。
その分岐点には宇都宮朝綱が造立した不動明王が安置されているという不動堂がある。
宇都宮朝綱とは源平合戦時代の武将である。
彼が最初に宇都宮氏を名乗ったとされる。

不動堂

そこから10分ほどで街道右手に蒲生君平勅旌碑が現れる。
蒲生君平とは江戸後期の尊王家。
明治になってからその思想が明治天皇から高く評価され、出身である宇都宮に彼を顕彰するこの碑が建てられた。

蒲生君平勅旌碑

さてせっかく国道をそれた日光道中だが、道筋に旧道の気配は皆無だ。
更地に新しくひかれた道にさえ見える。
何しろ戊辰戦争では激しい宇都宮城争奪戦が繰り広げられ、太平洋戦争ではB-29の空襲にさらされたのだ。
街道時代の雰囲気が根こそぎ失われていても致し方ない。

国道をそれた日光道中

11:44AM、かつて歌橋町うたのはしまちと呼ばれたあたりに着く。
現地説明板によればなんと万葉の昔、このあたりに住んでいた者の歌が万葉集に載ったのが町名の由来だそうだ。
だがそれがどの歌なのかの説明はない。
わからないのだろう。

歌橋町

11:54AM、鍵の手と呼ばれる場所に到着。
見た目は直線道路だが、その交差点にはガードレールに囲われた不自然なスペースがある。
どうやらこれは宿場の出入り口の道筋を鉤型に屈曲させる桝形の痕跡らしい。
つまりここから宇都宮宿が始まる。

鍵の手

宿場に入ったからと言って何か雰囲気が変わる訳ではない。
相変わらずただの住宅地だ。

宇都宮宿

敢えて言うなら一軒一軒の土地が不自然なまでに細長く奥まっている。
これは間口の広さで税や労役が決められた宿場時代の名残と思われる。

宿場内の住宅

郵便局の先の路地を入ったところに材木町木戸跡がある。
ここにあった木戸は武士が場内に通う朝夕だけ開門されたので「不明門あかずのもん」と呼ばれた。

材木町木戸跡

旧道は裁判所前という交差点のT字路にぶつかって右折する。
そこはもはや旧街道云々というよりは、県庁所在地宇都宮の中心市街地の大通りだ。
そして100m足らずで左に伸びる、ビルに挟まれた狭い道が日光道中。
左折しないでそのまま真っすぐ進む道は白河に至る奥州道中。
ここは日光道中と奥州道中の追分なのだ。

日光道中と奥州道中の追分

その追分に道標でもないかと探してみたが、案内板はあったものの往時の遺物は何も見つけられなかった。


今日の旅はこれで終了、昼食は勿論餃子通りへ。
「餃子キャロル」に並んで1時間待ってから腹いっぱい餃子を食べて夫婦で2500円。
人気なのもうなずける。

餃子キャロル

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