掛川~袋井~見付2024.12.29
7年ぶりとなった東海道歩き。
久しぶりに僕ら夫婦と高1の娘、そして女房の兄貴の4人で歩く。
夜通し走らせた車を今夜宿泊のスマイルホテル掛川の駐車場に停める。
8:35AM、現在は中町商店街という寂れたアーケード街となっている掛川宿を歩き始める。
街道右手には掛川城の再建天守が見える。
そのすぐ先、街道右手の円満寺には掛川城三の丸にあった蕗の門が移築されている。
枝分かれして旧道らしい道幅とくねり具合となった東海道の右手の路地を入ってくねくねと進んだ先にある墓地の一角に平将門十九首塚なる物がある。
現地の説明板によると平将門ら十九将の首を持って都へ帰る途上の藤原秀郷と、検視のため北へ向かった勅使が掛川で落ち合い、このあたりの川で首を洗って埋葬した跡だということだ。
将門の首に関する伝説は各地にあるが、この話にはリアリティが感じられる。
さて、それが由来となってこの辺りは十九首という何ともおどろおどろしい地名となっている。
公園のプレハブ倉庫には「十九首区自主防災会」の文字、公民館は勿論「十九首公民館」だ。
9:30AM、倉真川を大池橋で渡る。
ここで秋葉神社に向かう秋葉街道と枝分かれする。
東海道は左に向かい天竜浜名湖鉄道の高架をくぐる。
10:02AM、街道左手に大池一里塚跡の案内表示。
実際にはこの10mほど北にあったそうだが現在その痕跡は見当たらなかった。
そこから5分で、ほんの数本ではあるが松並木の名残が現れる。
中山道とは違う東海道らしい景観となってきた。
10:35AM、仲道寺という寺の前に到着。
このお寺が出している看板の説明によるとここは東海道の中間地点だということだ。
東海道を歩き始めたのが2009年の12月だからここまで15年もかかっている。
今年還暦だったのでこのペースならゴール時は75歳だ。
俺は生きているのか?!
そのすぐ先から始まる松並木はなかなか本格的だった。
松並木が終わったあたりからが間の宿原川だが、道筋とか家並みにそれなりの雰囲気はあるものの明確な痕跡は見つけられなかった。
原野谷川を渡ると10分足らずでまた松並木。
その松並木の間にある富士浅間宮赤鳥居は天正18年(1590)の建立。
本殿への参道の入口に建っているということだが、その本殿への道がどれなのか現在ではよくわからなくなっていた。
11:37AM、久津部一里塚跡に到着。
街道左手の小学校の一角にそれっぽい土盛りが復元されている。
11:54AM、「あぶら山へ」と書いた道標が右手の路地の入口に建っている。
この路地を3km行った先にある油山寺という寺への道標だ。
まばらな松並木の道を歩いていると、右手の松の間に建てられた小さな看板に、
除草剤散布禁止!!
久努の松並木愛護会
土塁が崩れ、松が枯れて倒れます
と書かれていた。
ただでさえ数を減らしている松並木が不必要に枯らされることは避けたいものだ。
ただこの少し先の松並木はなかなか立派だった。
12:08PM、「従是油山□」(□は判読不能)と書かれた道標の角を右に曲がる。
旧道に並行する県道253号沿いのラーメンショップ袋井店で昼食をとる。
1:09PM、街道歩き再開。
1:29PM、「これより袋井宿」という石柱が街道左手に現れて袋井宿に入る。
堀のような川に架かる橋を渡ると東海道どまん中茶屋という街道ウォーカーにはありがたい無料休憩所があるのだが、今日は年末ということで休業中、トイレも閉鎖されていた。
袋井宿は江戸から数えても京都から数えても27番目の宿場ということで「どまん中ふくろい」をやたらアピールしてはいるが、宿場の雰囲気は乏しい。
常夜灯があったりするが、それ以外はごく普通の住宅街だ。
宿場に入って10分ほどで街道右手に袋井宿東本陣跡が現れる。
もちろん現存せず、小公園に本陣の門をイメージしたモニュメントが建っている。
街道左手の袋井宿場公園は昔の宿場をイメージして作られたそうだ。
その先の問屋場(人馬会所)跡は例によって奥方向に細長い駐車場となっている。
1:52PM、街道左手に復元された高札場があって袋井宿が終わる。
袋井宿を出て見付に向かって歩く。
2:08AM、街道右手に立派な長屋門が現れる。
これは明治元年(1868)築と伝わる寺澤家長屋門だ。
東海道沿いの長屋門は珍しいらしい。
2:28AM、木原一里塚跡を通過。
現存せず、本来の位置より60m西に復元されている。
2:34AM、許禰神社の前に到着。
ここは武田信玄が徳川家康をさんざんに打ち負かしたことで知られる三方ヶ原の戦いの前哨戦である木原畷の戦いの古戦場でもある。
さらに関ケ原の戦いに向かう家康が腰かけたという徳川家康公腰掛石なる物まである。
さらに見付に向かって歩く。
三ケ野橋を渡ったところで旧道は左にそれ、土手沿いを少しだけ進んだところで右のガードレールの間から階段で土手を下りる。
突き当たった道を左に進んですぐ右に伸びる細い道に入る。
松並木の名残と思われる松の古木が1本だけ残る道だ。
すぐに左に分岐する道は東海道ではなく、鎌倉時代の古道だ。
東海道は真っ直ぐ進む。
そして突き当たる道標のある二股道を左に行くべきところ、間違って右に進んでしまう。
間違いに気づいて戻って来るまで20分ほどロス。
改めて進む東海道は坂をくねくねと進む。
ここに来てやっと旧街道としての本格感が出てきた。
そして左に分岐する更に細い道に入って行く。
かなり急な坂だ。
坂を上り切ったところが古戦場大日堂。
現地の説明板の文面ではここで実際に戦闘があったのかよくわからないが、三方ヶ原の戦いの前に本多平八郎がここに物見を置いたことは間違いないらしい。
たしかに生い茂る樹木の間からは遠くまでが良く見渡せる。
東海道は住宅地を抜けた後、さっき坂を上った分今度は坂を下る。
4:08PM、今日何度目かの松並木。
随分と電線でがんじがらめな松並木だ。
4:11PM、「従是西 見付宿」と書かれた現代の標柱があって、見付宿に入る。
と言っても宿場の雰囲気どころか家さえない。
その先で旧道は県道413号に合流する。
道の反対側に遠州鈴ヶ森という刑場跡があるということだが、そこに行くための歩道橋が修理中で通行止めだったので、道の反対側から大体の見当で写真だけ撮った。
それにしても鈴ヶ森という地名は品川にもあった。
そこも刑場だった。
鈴ヶ森のすぐ先で旧道は県道から右にそれる。
住宅地を抜けた後、坂を下って急激に高度を下げる。
あと押し坂というらしい。
坂の向うにこれから向かう見付(磐田市)の市街地が見えてきた。
坂を下り切ったところに見付宿の木戸跡がある。
実際はここからが宿場の始まりではないだろうか。
またここには阿多古一里塚がある。
ただ現地説明板によるとここには左右両塚残っているということだが、進行方向左の塚はここだろうという見当はついたが、右側は見つけられなかった。
このすぐ先に休憩するのにちょうど良さげな喫茶店があった。
既に15kmを歩き、一同疲れて本当に寄りたかったのだが、日没まであと30分ほどしかない。
ゴール予定の磐田駅まではまだ2kmほどある。
暗くなる前にでるだけ進んでおきたいので泣く泣く素通りした。
夕暮れの見付宿を歩く。
街道右手の静岡銀行が問屋場跡。
そのすぐ先の廃業したっぽいパン屋と宗教施設の間の路地に「本陣跡」の立て札。
この向かいに脇本陣跡があるらしいのだが、意外と広い街道を横断して見に行くほどの時間的、体力的余裕がなかったので素通りした。
その代わりではないが、少し先の小公園に脇本陣大三河屋門が移築復元されていた。
疲れも限界に達したので通りかかったスーパーで今晩から明日の朝までの食料を買い込んだ。
トイレを借り、ちょっと休憩もして店を出る頃にはすっかり暗くなっていた。
歩き始めてすぐに東海道は右から来る県道56号線と合流して左に折れる。
折れないで真っすぐ続く細い道が姫街道だ。
ここから浜名湖北の尾根を通って御油宿で東海道と合流する。
暗い街道を磐田駅に向かって歩いていると右側に変に明るいお寺がある。
創建750年を誇る西光寺だ。
ところがこのお寺、縁結びの御利益をアピールする余りおかしなことになっている。
門前に掲げた看板のイラストはアニメキャラみたいだし、「縁結び♡パワースポット」というコピーも若い子向けに振り切りっている。
平重盛の位牌や、徳川家光の妹で、明生天皇の生母となる中宮・東福門院遺愛の寺宝を所有するほどの由緒あるお寺がこれでいいのだろうか?
西光寺の先で東海道は左にそれる。
男でも一人歩きは避けたいほどの暗く寂しい道だ。
すぐに県道に合流して少し進むと奈良時代創建と伝わる府八幡宮がある。
鳥居周辺の雰囲気からかなり立派な神社であることがうかがわれたが、時間的、体力的な都合で素通りした。
府八幡宮の前を過ぎると薄暗い県道の先に磐田駅前の街灯りが見えてきた。
右に行けば遠江国分寺跡だがここもパス。
そして6:19PM、今日のゴール地点の磐田駅前に到着した。
全行程約18km。
久しぶりに参加した娘も頑張ってくれた。
だが次回以降はもっと無理のない計画を立てたい。
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