鳥居本~高宮~愛知川2007.2.24
この区間を歩いたのは2007年の2月。
今から16年前。
従ってその時に撮った写真を頼りに思い出しながら書いてみたい。
午前中は彦根城を観光。
彦根藩主でもあった井伊直弼を”開国の父”と讃える説明の数々に接する。
安政の大獄の「あ」の字もなかった。
その後昼食に入ったレストランで1時間も料理を待たされ、鳥居本へ向かう電車の接続も悪く、そんなこんなで歩き始めたのは3:00PMを過ぎていた。
鳥居本宿は道幅や民家の佇まいに宿場風情が感じられる。
5分ほどで右に垂直に伸びる道が現れる。
彦根に向かう彦根道だ。
江戸時代には朝鮮からの使節が通行したことから朝鮮人街道とも呼ばれていた。
宿場を出ると田んぼの中のあぜ道のような道を歩く。
この辺りが鳥居本宿成立以前に宿場であった小野である。
小野小町はここの生まれらしい。
名神高速のガードをくぐるとそこに小町塚があり、祠の中に小町地蔵なる物があるそうだ。
4:28PM、高宮宿に入る。
高宮宿には連子格子の家や、卯建の上がる家などが当たり前のように建ち並んでいる。
街道を横切るように流れる用水路も美しい。
宿場中ほどには多賀大社一の鳥居が威容を見せている。
この鳥居から東に伸びる道が多賀大社への表参道で、多賀道とも呼ばれた。
それを示す道標も建っている。
そのすぐ先の本陣跡では表門だけが往時の姿を残している。
16:47PM、宿場のはずれの高宮橋のたもとのむちん橋地蔵尊に到着。
天保の初め、彦根藩がこの地の富豪に命じて広く一般の寄付を集めて橋を架けた。
橋の通行は有料が普通だった当時、この橋は無料で渡れたことから「無賃橋」と呼ばれた。
時は流れて昭和52年、橋脚改修工事の際、2体の地蔵が発掘された。
そこでお堂を建立して祀っているのだそうだ。
木枯らしの近江路を愛知川に向かう。
18:21PM、石畑の一里塚跡に到着。
この辺りは高宮と愛知川の間に置かれた間の宿だった。
辺りはもう真っ暗だ。
街灯も頼りない町はずれの旧道を心細くトボトボと歩く。
街道の左手を近江鉄道のマッチ箱のような電車がトコトコと走り、その向こうを新幹線がSF的な猛スピードで追い越してゆく。
夜の田園地帯に展開するシュールな光景。
宇曽川を渡る橋のたもとに説明板があったのでそれを読むと、この橋は歌詰橋といい、東国で平将門を討ち取った藤原秀郷が京に上る途中、この橋のたもとに来たところで目を見開いた将門の首が追いかけて来た。
秀郷が首に向かって咄嗟に
「歌を一首」
と言ったところ、歌に詰まった首は橋の上に落ちた。
以来この橋にこの名が付いたのだという。
こんな寂しい路上でこんな怖ろしい話を聞かされたのではたまったもんじゃない!
余りの恐怖に写真も撮らず、目を見開いて追いかけて来る将門の生首の幻影におののきながら一目散に橋を渡って立ち去った。
そこから1kmほどのところの旧中山道と愛知川駅への道が分岐する地点でこの日の中山道の旅を終えた。
その時、再びここにやって来るまで16年もかかるとは思ってもいなかった。