間々田~小山~新田~小金井2023.2.18

7:40AMに春日部市の自宅を車で出発して国道4号バイパスを北上。
今日のゴール予定地、小金井駅前のコインパーキングに車を置き、JR宇都宮線で間々田まで南下。
間々田で下車して5分ほど西に歩いて本日のスタート地点、間々田駅入口交差点に立つ。

準備運動をして9:36AMに歩き始める。
国道4号線だ。

国道4号線

500mほどで入り組んだ民家のブロック塀の間に挟まれる格好で1本の木が立っている。
これは江戸と日光の中間地点の目印として植えられた榎だ。
中間点にあることから「あいの榎」と呼ばれていたのが、いつの間にか「逢の榎」と呼ばれるようになり、縁結びの木として信仰を集めたそうだ。

逢の榎

それにしても日光道中を歩き始めて1年以上が経過してやっと中間点というのは想定外の遅さである。
中山道(約520km)や東海道(約480km)に較べるとずっと短い(約148km)のでもっと簡単に踏破できると考えていたのだが、見当違いだったようだ。

そのすぐ先、左側にある龍昌寺は徳川三代将軍家光の亡骸を日光の大猷院に移葬する際、境内に「御麗屋みたまや」を設営し安置所とした寺である。
日光は家康の墓所である日光東照宮があるところだ。
生涯家康を崇敬し続けた家光らしい話である。

龍昌寺

そこから10分足らずで問屋場跡の説明板がある。
逢いの榎あたりから間々田宿に入っていたはずなのだが、宿場の雰囲気は皆無だ。
幹線道路脇の空き地の金網フェンス越しに説明板が1本立っているだけだ。

問屋場跡

そのすぐ先の本陣跡も同様だ。
本陣の敷地は現在電気工事関係の会社の敷地になっているのだが、その敷地の向うに広大な敷地の立派なお屋敷があったのでもしやと思い近付いて表札を見ると本陣を務めた家と同じ苗字が記されていた。
中山道では近代以後没落した本陣が多かったのだが。

間々田宿本陣跡

そこから30分ほどのところにある「御菓子司蛸屋」のあたりに一里塚があったらしいが正確にはわからない。

一里塚跡あたり

10:52AM、道の左手の空き地にただ「大橋」とだけ書かれた看板が建っている。
どうやらここは幕末の思想家、大橋訥庵が婿入りした大橋家の旧居跡らしい。
訥庵自身は恐らくここに住んだことはないと思われる。
その訥庵が私塾を開いていたのが江戸郊外の小梅村。
現在の墨田区向島、4年前まで僕が暮らしていたあたりだ。
それにしてもこの「大橋」の看板はどういう意味なのだろうか?

大橋家旧居跡

その「大橋」に関係あるのかないのか、すぐ先に「大橋農場直売所」という小屋がある。
今日は休みだが、普段は有機栽培の米や野菜を販売しているらしい。
そしてその小屋の脇から左にそれる路地が旧道の名残だ。
民家の間の生活道路となっていて特に街道風情のようなものがあるわけではないが、国道に較べればはるかにマシだ。

旧道の痕跡

しかしその道も国道を200mほど並行した後に合流する。
そして次の信号で二股に分かれる。
左は国道4号線、右は県道265号線で、日光道中は右へ進む。
国道の左側を歩いて来た僕らは右へ渡らなければならないのだが、この信号はあくまで自動車用の物で、歩行者に対しては信号はおろか横断歩道さえない。
交通法規を遵守して右へ進むのは不可能だ。
是非もなく車両の通行の隙をぬって車道を横断し、分かれ道を右へ進んだ。

国道4号線と県道265号線の分かれ道

これで国道とはお別れしたわけだが、だからといって道筋に街道風情が出てきたかというと残念ながらそんなことは全くない。
殺風景な国道が殺風景な県道に変わっただけだ。

11:39AM、天満宮に到着。
ここはかつての小山宿の入り口にあたり、往時は土塁や矢来柵があった。
境内では天満宮らしく梅が咲いている。

天満宮

小山宿に入る。
と言っても宿場の面影は見当たらない。
ただ、電線を地中化しているらしく通りに電柱がないのは歩きやすく、景観的にもすっきりしている。

小山宿

街道左手には石田三成との決戦を決意した家康が戦勝を祈願したという須賀神社への参道が伸びている。
そう、小山は歴史的に極めて重要な出来事があった地なのだ。
慶長5年(1600)、上杉景勝討伐のため会津に向かっていた家康はここ小山の地で三成挙兵の報を受け取る。
そこで家康は従軍の諸侯を集めて評定を開き、これから取って返して三成を討つ自分につくか、三成につくかを居並ぶ諸侯に問うた。
家康細心の根回しが功を奏して三成討伐に衆議一決、これが関ケ原での勝利につながることになる。
世に言う「小山評定」だ。

しかしこの宿場内にそれを紹介するような物は見当たらなかった。

街道右手の常光寺の阿弥陀如来像の台座には戊辰戦争の小山の戦いにおける弾痕が残っているということなので行ってみたが、それらしい物は見つけられなかった。

常光寺

街道に戻ると若松脇本陣跡がある。
街道左手の空き地に「明治天皇御駐輦之碑」という大き過ぎる石碑が建っていて、その奥の塀の向うに見事な唐破風の玄関が見えている。
しかし何の説明もない。
しかも玄関の後ろはまるでトタン張りのバラックのようにみすぼらしい。
この貴重な遺構が崩壊するのも時間の問題かも知れない。

小山宿脇本陣跡

小山駅に向かう道と街道が交わる交差点のパスタ屋で昼食を取る。
アル・デンテなどとは無縁の昔ながらのミートソース。
また店内にモハメド・アリ対ソニー・リストンのポスターやジェームズ・ブラウンのポスターが貼ってあった。
オーナーとは気が合うかも知れない。

12:56PM、歩きを再開する。

歩きを再開

街道左手の興法寺に立ち寄る。
この寺の地蔵尊にも戊辰戦争の弾痕が残るということだったが、ここでも見つけられなかった。

興法寺

そこから30分ほど歩いた左側の薬師堂にはこれから通る喜沢追分にあった道標を兼ねた念仏供養地蔵尊がある。
ほとんど読み取れなかったが、「右江奥州海道」「左江日光海道」と刻まれている。
できれば現地に置いといてほしかった。

念仏供養地蔵尊

このすぐ先の日枝神社にも喜沢追分から移された道標があるそうだが、これはもう見に行かなかった。
ただ参道の樹齢400年以上のケヤキ並木は見事であった。

日枝神社の参道

1:57PM、喜沢追分に到着。
Y字路の股の部分に「男體山 左日光 右奥州」と書かれた大きな道標が建っている。
これは平成に入って再現された物で、本物はさっきの日枝神社にあるらしい。

喜沢追分

左は壬生経由で日光へ行く道。
本来の日光道中よりも4kmほど短い。
庶民の日光参詣にはこちらが使われた。

壬生道

右は宇都宮経由で日光、そしてその先の奥州街道へと続く道。
僕らが歩く日光道中はこちらだ。

二股道を右へ進むとすぐに右に枝分かれする路地がある。
これが旧道だ。

右に分岐する旧道

民家の間を通る細い道を500mほど進むと喜沢の一里塚に到着する。
しかし現地には何の案内も無い。
西塚は空き地の中のこぶ、道をはさんで東塚は駐車場の中の意味不明な盛り土となっている。
現存しながらここまでひどい扱いをされている一里塚は初めてだ。
さっきの脇本陣といい、小山市は旧街道という物に対する関心が薄いようだ。

喜沢一里塚

その先旧道はJR東北本線の線路に斜めに近付いて行って、接したところで消失するのでしばらくは線路に並行する道を進む。
すると左斜めに分岐する細い道が現れる。
これが旧道なのでそちらを進む。

再び現れた旧道

その細い道が国道4号線に合流するあたりが新田宿らしいのだが、そんな雰囲気は全くない。
単なる郊外の幹線道路だ。
そんな中、青木本陣跡に残る四脚門は周囲から完全に浮いてしまいながらも往時を伝えている。

新田宿青木本陣跡の四脚門

また個々の民家の塀には屋号を記した木札がくくりつけられている。
これは旧街道に冷淡な小山市に代わって地元有志がやってくれているのではないだろうか。

屋号を記した木札

青木本陣から約500m、銅市金属工業の先で旧道は左に垂直に分岐する。
分岐した後すぐまた右に分岐する道と、道なりに進んで右カーブする道がある。
パッと見は後者の方が旧街道に思えるが、実際の日光道中は前者だ。
その証拠に二つの道に挟まれるように並ぶ石仏群は前者の方に顔を向けているのだ。

石仏群

その細い道をひたすら歩く。
団地や民家の間を通る生活道だ。

日光道中

そして3:28PM、その道が小金井駅への道と交差する地点で今日の行程を終えた。

今日一日、旧街道としての風情や見所の乏しい道を16km弱歩いた。
まるで修行のようだった。


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