赤坂~垂井~関ケ原2007.2.23

今回の区間に関しては2007年の2月に歩いている。
なので15年前を思い出しながら書く事にする。

なぜここを先に歩いたのか今となってはその理由を思い出せない。
ただ当時この旅をWEBで公開しようというような意識は全くなかった。
写真もあくまで自分たちの記念写真として撮ったものだ。
従ってほとんどの写真に自分が写り込んでいることをあらかじめお断りしておく。

当時はまだ運行していた大垣ゆき夜行列車で夜明かしして終点の大垣で下車。
小雪舞う大垣城を見物。
ただしまだ朝の8時前。
昭和20年の空襲で焼失し、昭和34年に鉄筋コンクリートで再建した天守はまだシャッターが閉まっていた。

大垣城のシャッターは閉まっていた

関ケ原の戦いの直前、この大垣城は石田三成ら西軍の拠点となっていた。
しかし城攻めに苦手意識のある家康の陽動作戦に引っかかってこの城を出て関ケ原に移動することになる。
僕らもこの日はそのルートを辿ることになる。

大垣城

まずは大垣駅に戻り、JR線で美濃赤坂駅へ。
下車して、家康が関ケ原戦の前に陣を敷いたという勝山へ行ってみたのだが、どこが陣の跡かわからないまま時間だけを無駄に費やした。
雪は雨に変わっていた。

勝山を諦めて赤坂宿へ向かう。
9:11AM、東西に延びる中山道に南からアクセスすると本陣跡の公園に出た。

赤坂宿本陣跡

公園の中に建っている銅像は所郁太郎という赤坂出身の幕末の志士。
西洋医学を修め、幕末の動乱に身を投じて国事に奔走することを志しながら、刺客に襲われて瀕死の井上馨を治療して命を救ったことだけを歴史に記して28才で没した不運の人だ。
司馬遼太郎の短編「美濃浪人」に詳しい。

所郁太郎銅像

赤坂は昔ながらの屈曲した道筋に、旧い家屋がいくつも見られる雰囲気のある宿場だった。

赤坂宿

宿場の途中の路地を左に入ると、将軍専用の宿泊所であった御茶屋屋敷がある。
御茶屋屋敷というと名前は風流だが、実際に見ると土塁や空堀があって城郭に近い。
竹林の美しさが印象に残っている。

御茶屋屋敷の竹林

赤坂宿を出て垂井に向かう。
雨は激しく降りしきる。
空を見ると遠くにわずかな雲の切れ間があってそこから青空がのぞいている。
そこに望みを託しているとその切れ間がみるみるうちに広がって、垂井に着く頃には傘がいらないほどになっていた。

垂井宿に入る

垂井宿は旧い建物が現役の商店として頑張っているこじんまりとした宿場だった。

垂井宿

垂井宿を出、垂井の一里塚を12:27PMに通過。

垂井の一里塚

旧中山道と並行する国道21号線沿いのドライブインで昼食をとる。

中山道に戻って歩きを再開し、1:54PMに山内一豊陣跡という説明板と丸三葉柏紋の幟がある場所に着いた。
いよいよ関ケ原の古戦場だ。

山内一豊陣跡

もう一度国道21号線に戻って南側法面沿いの階段を上って徳川家康最初陣跡へ。
ここは桃配山とも呼ばれるのだが、その由来は壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)がここに陣を敷き、将兵に桃を配って勝利を得たという故事にちなむ。
家康はその吉例に倣ってここに最初に陣を敷いたのだが、戦いが白熱すると居ても立ってもいられずに陣を前進させることになる。

徳川家康最初陣跡

いつの間にかという感じで関ケ原宿に入っていたのだが、これという印象は残っていない。
旧い建物はなく、わずかに脇本陣の門が残っていた。

関ケ原宿脇本陣跡

その次の角を曲がるとその道は北国脇往還なのだが、少しだけ進むとそこにある八幡神社が本陣の跡だそうなので、中山道の旅はここまでにして小早川秀秋が陣を敷いた松尾山を登りかけたが、日没までに帰れそうになかったので途中で断念して関ケ原駅に向かった。

八幡神社前の北国脇往還

【前へ】【次へ】

Follow me!