(行田駅)~熊谷~深谷 2007.5.26
9:53AM、前回のゴール地点から荒川土手を歩き始める。
都内から1時間ほどとは思えないほどののどかな景観。
空には雲一つない。
まことに気分がいい。
40分ほど歩いた頃に土手を下りる。
すぐ右の民家には「みかりや跡」の案内板が建っている。
ここは旅人相手の茶屋をやっていて“ゆべし”が名物だったそうだ。
また忍城の殿様が鷹狩りをする際はここが休憩所として使われたのでこの名で呼ばれるようになった。
10:55AM、児童遊園となっている一里塚跡を通過する。
この頃から暑さを感じ始める。
そう、ここは熊谷なのだ。
このところ夏が来るたびにとんでもない最高気温をたたき出して全国的にその名をとどろかせるあの熊谷なのだ。
暑くて当然だ。
道は熊谷市中心部に向かい、陽は高く昇り気温もどんどんと上昇する。
暑さのために集中を欠いたのか、あったはずの高札場跡、本陣跡をことごとく見落とした。
気が付くと目の前に八木橋デパートが立ちふさがっている。
中山道はこのデパートの中を突っ切っていた。
今このデパートの中を通ることもできたが、迂回してデパートの裏で合流した。
合流すると一番街という古い感じの商店街。
500mほどで国道17号線に合流して、そこから1kmちょっとで国道を左にそれて行く。
そこから150mほどで右手に一里塚があり、樹齢300年の堂々たるケヤキが立っている。
1:38PM、その木陰で休憩、水分を補給する。
一里塚から5分ほど歩くと左手に「従是南忍領」と刻まれた石柱が建っている。
これは安永9年(1780)に忍城主が領地の境界を示すために建てた物だ。
路傍の風景はどんどんとのどかになってゆく。
その道がまた深谷市の市街地にに入り、小学校、中学校、高校が建ち並ぶ一角にひょろっとした松が植えられている。
ここは深谷宿の東の外れに当たる。
深谷は飯盛女と呼ばれる遊女がたくさんいる宿場だった。
一夜の客がその遊女との別れを惜しんで振り返っているように見えることから「見返り松」と呼ばれている。
ただし、現地説明板(普通こういう説明板は地元教育委員会が作るのだが、ここはなぜか国土交通省)によるとその松は平成18年2月に枯死したために伐採。
今ここにあるのは2代目だそうだ。
それにしてもここに建ち並ぶ学校では目の前のこの史跡をどう子供に説明しているのだろう。
きっと深谷の子供は大人になるに従ってこの松の意味を理解してゆくのだろう。
教育委員会もそこには触れたくなくて説明板を国土交通省に任せたのかも知れない。
3:43PM、高さ4mの常夜灯の前を通る。
ここからが深谷宿だ。
かつては中山道でも屈指の賑わいを見せた深谷宿も今ではちょっと寂しい商店街だ。
4:03PM、今日の歩き旅を終えて深谷駅に向かった僕らはその駅の姿に驚愕した。
見事な赤レンガ造りの堂々たる駅舎だ。
中に何か商業施設でもあるのかと思ったが、何もないプレーンな駅だ。
なぜ深谷にここまで立派な駅が必要なのか理解できなかったが、どうやら当地出身の実業家渋沢栄一のレンガ事業にちなんだ物だったらしい。