深谷~本庄 2007.6.3
9:33AM、深谷駅に到着。
前回度肝を抜かれた立派過ぎる赤レンガの駅舎。
駅前にはその駅舎の所以になった渋沢栄一のこれまた立派な銅像がうれしいのかあきれてるのか微妙な表情で建っていた。
街道を歩き始める前にほとんど遺構の見当たらない深谷城址付近をウロウロしていると富士浅間神社の前に「童謡『みかんの花咲く丘』誕生の地」と書かれた棒杭を発見。
戦時中、作詞家の加藤省吾が深谷に疎開している時に故郷静岡を偲びながら作詞したのだそうだ。
さらに三光院で家康の甥にあたる松平康直の墓を見てから
深谷宿を歩き始める。
宿場中心部の飯島印刷所が飯島本陣跡で、案内板によると「上段の間、次の間、入側が古色を帯びてこの奥に現存している」そうだが、表から見る限りではその雰囲気はない。
10:46AM、常夜灯と、宿場の出入り口で道筋がかぎ型に屈曲する桝形を通過して深谷宿を出る。
10分ほどで街道の脇は名物深谷ネギの畑が広がるようになる。
そんな街道を30分足らず歩くとネギ畑の合間に「高島秋帆幽囚の地」という碑が現れる。
高島秋帆は幕末の砲術家。
長崎の町年寄の家に生まれながら西洋列強の東アジア進出に危機感を抱き、オランダ人から西洋式の砲術を学び、高島流の砲術を創始した。
幕府にも砲術の改革を進言したところそれが認められ、江戸近郊の徳丸が原で公開調練が実施された。
それが現在の板橋区高島平である。
ところが幕府が秋帆を重用するようになると妬みを買い中傷によって失脚、7年間この地に幽閉されていた。
一体に徳川260年を通じて幕府中枢の人たちは嫉妬深いように思われる。
三河人気質なのだろうか?
さて、街道の風景はますますのどかさの度を増してゆく。
「道の駅おかべ」で昼食をとり、
中宿古代倉庫群跡で奈良時代の倉庫の復元を見学した後の1:13PM、
旧中山道は小山川に向かって急激に高度を落とす。
路地くらいの道幅の両側から樹木が覆いかぶさり、トンネルのようだ。
その下り坂の途中に庚申塔が所狭しと建ち並ぶ異様な一角がある。
説明板によるとこれは「百庚申」と呼ばれる物で、万延元年(1860)に地元の有志によって建てられた。
万延元年といえば桜田門外で井伊大老が暗殺された年だ。
そういった騒然とした世相から来る不安な心理がこういった物を作らせたのかも知れない。
川を渡ってしばらくすると道が二手に分かれる分岐点に出た。
現地の案内標識は左にそれる道が旧道であると告げている。
しかし僕の“旧街道カン”とでも呼ぶべきものが「この道は違う」と告げている。
左にそれずに直進してみるとバイパスにぶつかる。
信号も横断歩道もないのだが、バイパスを超えた向こうには旧道らしき道が続いている。
間違いない、旧中山道はこちらだ。
さっきの標識はバイパスを横断させたくない行政が中山道ウォーカーを迂回路にミスリードするために付けた物だろう。
勿論ガードレールをまたいで車道を突っ切り、向こう側の旧道にアクセスした。
その先の旧道がビニールハウスの間を縫う農道のようになった頃、すれ違う軽トラックのおじさんが僕らを見て
「若い人の中山道歩きは珍しいな」
と声をかけて行った。
そんなに若くはないんですけど。
この後道を間違えて1時間ほど時間をロスした後旧道に戻り、4:13PM、本庄駅から伸びる道と旧道が交差する地点を今日のゴールとして家路についた。