(茅ヶ崎駅)~平塚~大磯2010.11.20
新橋駅のホームで女房の兄貴と合流し、9:08AMの東海道本線普通小田原行きに乗る。
茅ヶ崎に10:01AM到着。
茅ヶ崎と言えば、言わずと知れた桑田佳祐の地元である。
サザンオールスターズファンクラブ会員の女房は2000年の“茅ヶ崎ライブ”にも来ている。
その時に「お帰りなさい桑田佳祐」という垂れ幕がかかっていたという改札を出て北口へ。
東海道ウォークを始める前に、桑田自身がその茅ヶ崎ライブのステージ上で少年時代の万引きを告白した楽器屋に寄って「デジレコ」という無料の音楽誌をもらう。
本屋と楽器屋が一緒になった変わった店だった。
さて前回に引き続き余り面白味のない国道1号線を歩いていると、突然女房が「あっあった!」と素っ頓狂な声をあげる。
その指差す方を見ると藤沢で買って美味しかったお菓子の自動販売機コーナー、「湘南クッキー」がここにもあったのだ。
早速立ち寄っていくつか買って出ようとすると、自販機の補充をしていた店員が「これ、賞味期限が近いので良かったら好きなだけ持って行って下さい」と声をかけて来た。
見ると衣装ケースほどの箱にお菓子がいっぱいだ。
勿論10袋ほど頂いた。
その後東海道は右に湾曲して鳥井戸橋を渡る。
その時左側かなたに富士山が姿を現す。
これが“南湖の左富士”で、東海道中ではおおむね京に向かって右側に見える富士がここでは左側に見えることから有名だったらしい。
僕らにとっては東海道歩きで初めて拝む富士山だ。
この南湖あたりはかつて茶屋が立ち並ぶ立場だったのだが、今では街道沿いのファミレスやとんかつ屋が点在する。
時間は11:30AM、お昼にしたいところだが娘は背中のベビーキャリーで熟睡中。
仕方なく素通りすると左側に“相模川橋脚跡”という史跡が現れた。
方形の池に丸太の杭のような物が打ち込まれている。
これは関東大震災で地上に現れた鎌倉時代の相模川橋脚の遺構だ。
歴史書ではこの橋の開通式に臨んだ源頼朝が落馬してそのまま絶命したことになっている。
現在立っているのはもちろんレプリカだ。
800年の時を経て流路の変わった現代の相模川を渡り、程なく平塚の市街地に入る。
思ったよりも大きな駅前商店街が続く。
怪談「番町皿屋敷」のモデル、お菊の墓跡「お菊塚」があるというので東海道を左にそれる。
猥雑な歓楽街の裏通り、小さな公園の一角にその塚はあった。
しかしその公園たるや、割れたビンの破片やタバコの吸殻が散乱してとても死者を弔う雰囲気ではない。
不幸なお菊は死してなおいたぶられているのか?
現在遺骸は別の墓所に移葬されていると案内板にあるのを読んでホッとした。
旧東海道に戻り、この商店街が途切れたあたりに平塚宿の江戸見附跡がある。
つまりさっきの駅前商店街ではなく、ここからが平塚の宿場だったわけだ。
ここから旧東海道を右にそれてすぐのところに広大な芝生広場があったので、ここでセブンイレブンのお握りを食べ、娘を遊ばせる。
何よりも走り回ることが好きなうちの娘にはこういう場所が一番ありがたい。
平塚宿を歩く。
本陣、脇本陣、問屋場跡などがちゃんと案内板で示されている。
ひとつ手前の藤沢宿にはその類が一切なかったので随分久し振りに旧宿場町を訪れたような気がする。
勿論平塚にも宿場時代の建物など何も残っていないのだが、こうやってその跡を教えてもらうだけで僕らはある程度往時をイメージすることができるのだ。
その意味でも藤沢は今まで訪れた中で最も残念な宿場だったと言わざるを得ないだろう。
ちなみに本陣跡は神奈川銀行平塚支店となっていた。
本陣跡が銀行になっているのは僕の記憶では川崎、戸塚に続いて3つ目だ。
そろそろ街道の行く手にこんもりとお椀を伏せたような山が見えて来る。
これが広重の浮世絵などで有名な高麗山だ。
金目川にかかる花水橋を渡って大磯町に入る。
高麗山は横から見ると後ろにもう一つのこぶがつながっている。
そして部分的に色づいている。
旧東海道は国道1号線を右にそれて化粧坂というゆるやかな坂道となる。
車線も歩道もない旧道の両側に松並木の名残の植え込みが街道を覆うように茂り、その背後に住宅(別荘?)が建ち並ぶ。
ここはその生活道となっている。
JRの線路を地下道でくぐると、その先は樹齢100年以上と思われる松が道にかぶさるように傾いていたりして一層街道風情をかきたてる。
この道が国道1号線に合流してすぐの交差点で今日の東海道ウォークを終了して大磯駅に向かった。