大磯~(国府津駅)2011.1.9
東京駅のホームで女房の兄貴と合流し、8:15AM発の東海道線に乗る。
9:23AMに大磯駅到着。
娘のオムツ替えと準備運動を済まして坂を下り、現在は国道1号線になってる旧東海道の前回ゴール地点に着いたのが10:03AM。
冬晴れの大磯宿を歩き始める。
大磯宿に本陣は3軒あり、そのうちの1軒、尾上本陣跡を示す碑の側面には「大磯小学校発祥之地」とも刻まれている。
『夜明け前』の青山半蔵のように村の子弟の教育に熱心な本陣の旦那が自邸を小学校にしたのだろうか。
そして現在は中南信用金庫となっている。
またしても金融機関だ。
すぐ先で旧東海道は国道1号線を左にそれる。
その分岐点に同志社大学の創設者、新島襄終焉の地がある。
そういえば中山道の安中に新島襄の旧宅という案内板があった(寄らなかったが)。
今ここで説明板を読むと安中藩士の長男として生まれ、「憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡」ったとある。
元治元年といえば日本中が開国か攘夷かで大揺れに揺れて、過激な攘夷派が京都・池田屋で新選組に大量惨殺される池田屋事件、それに憤激して京に攻め上った長州藩が返り討ちにあって京の都を焼け野原にした禁門の変があった年だ。
そんな騒然たる世情の中、密出国までしてこれからの日本に必要となる知識を学ぼうとした志に感服する。
国道1号線に再合流するとすぐ左側に日本三大俳諧道場の一つといわれる鴫立庵という茅葺の古民家がある。
見学しようかと思ったが、入場料100円と聞いてやめてしまった。
なんとも向学心の乏しい僕らだ。
そのすぐ先で東海道から離れて右に入り、曲がりくねった路地の先に島崎藤村が最晩年を過ごした住宅が残っている。
生家・馬籠宿本陣跡の藤村記念館を昨年9月に見てきたばかりである。
その広大な敷地と比べると随分とこじんまりとした印象だ。
しかし日当たりのいい広縁と書斎は実に居心地が良さそうである。
旧東海道に戻り大磯宿を出ると箱根駅伝でもお馴染みの松並木が始まる。
右手の木々の間からは富士山を望むことができる。
また旧東海道が国道1号線を右にそれると、大磯城山公園がある。
その公園の丘を登ったところにある展望台からの眺めは素晴らしい。
富士はもちろん、箱根、伊豆の山並み、そして相模湾が一望できる。
冬の空は青く澄み渡り、風もなく暖かい。
時刻は11:30AM、いつも昼飯時に眠ってしまう娘も起きている。
昼食には絶好のシチュエーションなのに食べ物を持って来てない!
ちょっと前にコンビニに寄ったにもかかわらず、昼食までのつなぎにパンを1個買ってその場で食べてしまっていたのだ。
「こんなにいい公園なんだったらさっきのコンビニでおにぎりでも買っとけば良かった!」
一同後悔しながら当初の予定通り、事前の調べでデニーズがあるはずの交差点に行ってみるとそこはラーメン屋に変わっていた。
店の人に
「ここのトイレでオムツ替えできますか?」
と聞いてみるとできるということだったので、ここでラーメンを食べることにした。
オムツ替えをした女房によると使用済みのオムツを捨てられるようになっていて助かったとの事。
店を出て再スタートしたのが1:50PM。
今日のゴール予定の国府津駅まであと7.5kmといったところ。
この先はこれといった見どころもないようなのでひたすら歩く。
街道の行く手には箱根の山が立ちはだかるように迫ってくる。
遠からずあれを越えねばならない。
左手には海岸線が近付いてきているのだが、有料道路西湘バイパスが邪魔をしてまるで見えない。
海沿いを行きたければ車に乗って金を払えということか。
国府津駅の手前でそのバイパスの下をくぐって海岸に出られるところがあったので、急な階段を下りて娘に初めての海を見せてやった。
特に反応はなかった・・・・。
4:00PM過ぎに国府津駅前に着き、4:06PMの東海道線に飛び乗った。
娘の成長に伴ってベビーキャリーが肩に食い込んでかなり痛む。
何らかの工夫が必要だ。