本庄~新町 2007.6.17
現在は城山稲荷神社となっている本庄城跡を見物した後、本庄宿を歩く。
かつては中山道中で最大規模を誇った本庄宿も今ではどこにでもあるパッとしないくすんだ街並みが続くだけで、往時を偲ばせる物はわずかに田村本陣の門くらいだ。
さて新選組ファンにとって本庄はゆかりの地だと言える。
京都の治安維持の為に創設された浪士隊一行は京への途次、本庄宿に宿泊した。
その宿泊の宿割りに当たっていたのが後の新選組局長・近藤勇である。
しかしその近藤、実務は苦手なのかある男の宿の手配を忘れてしまっていた。
それが芹沢鴨という名うての乱暴者だったからたまらない。
怒った芹沢、ならば野営すると言い出し宿場の真ん中で大かがり火を焚き始める。
驚いて駆けつけた宿役人をぶん殴ってもなお腹の虫の収まらない芹沢に対し、近藤はひたすら平身低頭に詫びを入れ、どうにかこうにかその場を収めるという大騒動のあった場所なのだ。
今回本庄宿を訪れるにあたり芹沢がかがり火を焚いた場所などがわかればと思っていたのだが、今宿場を歩いても浪士隊に関する説明板の類は一切ない。
恐らく本庄の人々は芹沢鴨の乱暴狼藉など思い出したくもなかったのだろう。
本庄宿を出ると単調な県道歩きが続く。
昼食をはさみ2時間ほど歩いて陽雲寺という寺の前に着いた。
由緒書きによると晩年の武田信玄夫人がこの寺で暮らし、元和4年(1618)にここで亡くなったそうだ。
京の三条家出身で、後年“三条夫人”と呼ばれる信玄正室の生年ははっきりしないが、Wikipediaの大永元年(1521年)説をとると没年齢は97歳ということになる。
あり得ないこともないが、本当だろうか?
Wikipediaの同じページには信玄からうつされた結核のため50歳で亡くなったとあり、こちらの方がリアリティを感じられる。
旧道が国道17号線と合流する直前に武蔵国最後の一里塚跡がある。
そしてすぐに神流川の堤防を上る。
この川を渡れば上野国(群馬県)。
墨田区の自宅からせっせと通った埼玉ともお別れだ。
埼玉の中山道を振り返るとほとんどが単調な県道と国道の繰り返しではあったが、週末ごとに歩きに行けるというのはそれなりに楽しくもあった。
この神流川は古戦場でもある。
本能寺の変直後にこの地で織田方の滝沢一益と北条氏政が戦って、滝沢一益が大敗を喫した神流川合戦である。
川を渡って群馬県に入ってすぐの所には「神流川古戦場跡」という大きな碑が建っている。
そのあたりで旧中山道を離れて新町駅に向かった。