新町~倉賀野~高崎 2007.2.10
今回は一泊二日で上州路を歩く。
新町駅から国道17号線を埼玉方面に戻って、旧中山道が国道から分岐する地点から歩き始める。
すぐに新町宿に入ったはずなのだが、宿場の面影は全く残っていない。
わずかに小林本陣跡と書かれた棒杭が立つのみだ。
新町宿を出た旧中山道はさらに細い道に分岐し、東西に流れる烏川南岸の堤防上をひととき進む。
往時はそこから渡し場に下りて渡し船で渡河したのだが、現代はそのまま堤防上を歩いてから柳瀬橋を渡る。
川を渡ってから30分ほどで右後方からもう一つの旧道が合流して来る。
京方面から来るとここで街道が二手に分岐する格好だ。
これは日光例幣使街道との追分である。
家康の眠る日光東照宮に朝廷からの捧げものを届ける使者を例幣使と言い、彼らが通ることからこの名で呼ばれるようになった。
江戸期を通じて貧乏だった公家達にとっては格好の小遣い稼ぎの機会だったらしく、宿場宿場でご祝儀と称して金銭をせびる彼らは街道の嫌われ者だった。
今この場所には立派な阿弥陀堂と常夜灯と道標とが建っている。
追分を過ぎるとすぐに倉賀野宿に入る。
入ってすぐの床屋さんが僕らを見てお店から出て来て倉賀野宿を紹介するパンフレットを手渡してくれた。
現存する脇本陣の門の他に宿場時代の面影をとどめる物はほとんどないのだが、本陣跡の碑や高札場の復元など往時を偲ばせる努力は至るところで感じられた。
さっきの床屋さんの親切もその表れなのだろう。
倉賀野宿を出ると単調な県道が続く。
国道17号線をくぐり、新幹線を陸橋でまたぐなど街道風情も何もあったものではない。
そしてそのまま高崎の市街地に入った。
そこは高崎宿でもあるのだが、宿場らしさは全く感じられない。
ただの地方都市である。
街道筋から少し離れ、櫓と門が残る高崎城址へ行こうと我が墨田区役所とタメを張るくらい立派な高崎市役所の係の人に
「高崎城はどこですか?」
と聞いたところ、
「高崎城?高崎に城はないです」
との返答。
それを横で聞いていた別の職員さんが
「櫓のことじゃないかな、だったら・・・」
と場所を教えてくれた。
これは質問のし方も悪かった。
何しろ市役所は既に城の中に建っているのだ。
高崎城の櫓と門を見物した後、街道沿いのパークイン高崎に宿泊した。