大井~大湫2017.12.30

現代の旧中山道を歩く上で最大の難所は大井~大湫~細久手~御嶽の区間だろう。
何しろ大井宿最寄りの恵那駅を出ると御嶽宿最寄りの御嵩駅までの約31kmの間、駅はおろかバス停さえもないのだ(一部コミュニティ・バスが運行しているが平日のみ)。
しかも宿泊施設は細久手に江戸時代からやっている大黒屋という旅館が1軒あるのみだ。

今回その難所に小3の娘を含む家族3人で挑むにあたり次のような計画を立てた。

  1. まず12月28日(仕事納め)の夜11時30分に東京の自宅を車で出発する。
  2. 恵那駅の立体駐車場に車を停め、遅くても12月29日の7:00AMくらいから歩き始める。
  3. この日はスタート地点から20kmの細久手まで歩いて大黒屋(予約済)に宿泊。
  4. 翌30日は細久手から御嶽までの11kmを歩き、御嵩駅から恵那駅に戻りそこから車で帰宅する。

しかし結論からいうとここまで綿密に立てた計画もほんの小さな綻びから破綻することになる。
今回はその報告。

心配された帰省ラッシュに巻き込まれることもなく夜明けの恵那に到着。
ここ数日心配し続けた天気も良さそうだ。
ただ駅前交差点の寒暖計は-6℃。
経験したことのない気温だが、そのつもりで着膨れしてして来たので体感的にはそこまでの寒さは感じない。

恵那駅
恵那駅

中山道大井宿広場という公園でトイレを済ませ、珍しい霜柱に興味津々の娘を促して歩き始める。
時刻は7:20AM。
まずまずの出だしと言っていいだろう。
日没までに20km先の細久手に到着するためには遅くても2:30PMには14km地点の大湫を通過したいところだ。

中山道大井宿広場
中山道大井宿広場

さびれた商店街といった感じの旧中山道を10分ほど歩くと左手に立派な旧家が現れる。これは中野村庄屋の家だ。
中野村ということは大井宿はもう終わっていたのだろうか。

大井宿
大井宿

さて説明板によると文久元年(1861)の和宮降嫁の際に岩村藩の代官から強制的に費用負担をさせられた近隣の村の百姓が、この庄屋に滞在中だった代官を襲撃するという凄い事件があったそうだ。
しかも村では岩村藩相手に裁判を起こして、代官の罷免と金25両の下付を勝ち取っている。
幕藩体制の終焉が近いことを暗示するような事件だ。

中野村庄屋の家
中野村庄屋の家

そこから約20分ほど県道を行くと左手に西行硯水公園という小さな公園がある。
平安末期から鎌倉時代にかけての高名な歌人である西行法師がこの地に3年間暮らし、ここの泉の水で墨をすったという伝説にちなんだ公園だ。

西行硯水公園
西行硯水公園

そこから歩きながら後方を振り返るとまだ夜の開けきらない町並みの彼方の北アルプスに積もった雪が朝日を浴びて輝いていた。

北アルプス
北アルプス

8:00AM、右手に「西行塚」と書かれた大きな石碑があり、そこから旧道は右に分岐する。

右に分岐する旧道
右に分岐する旧道

踏み切りを渡り、中央道のガードをくぐると道は左に折れてすぐに石畳の坂道となる。
いよいよ古来難所として有名な十三峠の始まりだ。
石畳の起点には手書きの立て札があり、こう書かれている。


中山道はここより御嵩宿まで約30km幹線道鉄道を外れ山間を行きます.途中食堂や商店宿泊所などありません.十分な準備、下調べで前へお進み下さい.

確かにほぼその通り(宿泊所は細久手に1軒ある)だが、僕らはそのための準備はしてきたつもりだ。
とはいえ緊張を新たにして石畳を進んだ。

十三峠の始まり
十三峠の始まり

そこから10分足らずで駐車場とトイレだけがある西行苑というスペースがあり、石段を上って西行が葬られたという伝説が残る西行塚に出る。
西行については全くの不勉強で伝説の真偽を判断する材料は何も持っていない。

西行塚
西行塚

ただ隣接の展望台からの眺めはなかなかだった。

西行塚の展望台からの眺め
西行塚の展望台からの眺め

街道に戻って10分で槙ヶ根一里塚にたどり着く。
両塚とも霜で白茶けながら現存している。
ここには東屋とトイレもあるが、トイレは冬季の凍結防止のため使用できなかった。

槙ヶ根一里塚
槙ヶ根一里塚

そこからもうねうねと続く白い街道を歩いてゆく。

蛇行する旧道
蛇行する旧道

一里塚から20分で槙ヶ根立場跡に着いた。
江戸末期には9軒の茶屋が軒を並べていたそうだが、今はその跡らしきスペースが残るのみだ。

槙ヶ根立場跡
槙ヶ根立場跡

またここは名古屋方面に向かう下街道が分岐する槙ヶ根追分の地でもある。
中山道から南へ坂を下って行く道が下街道だ。
幕府は中山道の宿場保護のため通行を禁じ、尾張藩も厳しく取り締まったらしいが徹底できず、お伊勢詣りの旅人で賑わったそうだ。

槙ヶ根追分
槙ヶ根追分

そこから10数分で現れるのが首なし地蔵だ。
昔、二人の中間がここで休憩中に眠ってしまった。
一人が目覚めるともう一人が首を切られて死んでいた。
怒った中間は「黙って見ているとは何事か」とそこにあったお地蔵様の首を刀で刎ねてしまった。
それ以来誰が首を元に戻そうとしても戻らないのだそうだ。

首無し地蔵
首無し地蔵

その先大名行列も乱れたという乱れ坂を下り、

乱れ坂
乱れ坂

飛脚達が費用を出し合って架けたという乱れ橋を渡り、

乱れ橋
乱れ橋

四ツ谷集落に入る。

四ツ谷集落
四ツ谷集落

人家を見ると何となくホッとする。
集落内の集会所のトイレが旅人のために解放されていたのでありがたく使わせていただいた。
こういうのは本当に助かる。

四谷集会所
四谷集会所

この時点で9:40AM。

集落を出て左手の恵那山を眺めながら気分良く歩く。

恵那山
恵那山

道は集落から山の辺、杉林の中へと進むに従ってアスファルト、土、石畳と変わってゆく。
坂道のたびに坂の名を記した棒柱が立っている。
細かい上り坂と下り坂が十三連なって十三峠というそうだが、いくつもあり過ぎて今がいくつ目の坂なのかもうわからない。

かくれ神坂
かくれ神坂

道はのどかな田園地帯を行くのだが、娘のペースが落ち始めた。

田園の道
田園の道

10:08AMにたどり着いた紅坂一理塚(ここも両塚残っている)で休憩がてら今日初めてゲームをさせた。

紅坂一理塚
紅坂一理塚

歩き始めるとすぐに牡丹状の模様が露出しているぼたん岩がある。
これは花崗岩のたまねぎ状剥離(オニオンクラック)の標本として学術的にも貴重な物だそうだ。

ぼたん岩
ぼたん岩

さらにアップダウンは続く。
印象としては上りよりも下りの方が長くなってきたような気がする。

10:35AM、左手に佐倉宗五郎大明神が現れる。
現在の千葉県佐倉市で、佐倉藩の圧政を将軍に直訴して処刑された江戸初期の義民として有名な人だ。
その神社がなぜここにと思うが、どうやら宗五郎と同じように岩村藩の圧政を直訴して処刑された庄屋がいたらしい。
その庄屋を祀るのに本名ではお上ににらまれかねないので佐倉宗五郎の名前を使ったのではないかということだ。

佐倉宗五郎大明神
佐倉宗五郎大明神

街道は一瞬県道に合流し、右側に復元された高札場と深萱立場跡をみてまた右にそれる。
すぐに東屋とトイレの休憩スペースがあるので休憩する。
ここで娘は寝てしまった。
確かに昨夜からの徹夜ドライブで余り寝ていなかったのかも知れない。

右にそれる旧中山道
右にそれる旧中山道

ところが歩きを再開してからも娘のペースが上がらない。
それどころか街道が山道に入ると「タクシー呼んで」と言い出す始末。
もちろんこんなところで車を呼べるはずもない。
女房が楽しくなるような話をして何とか歩かせる。

山の中の旧道
山の中の旧道

道には数日前の雪の残りが目立ち始める。
水溜りが凍っているのを見つけた娘はつま先でつついて遊んでいる。
これだけ疲れていても目の前の興味にはすぐ食いつく。
靴を濡らしたらこの先大変だなどということには少しも考えが及ばないらしい。

旧道の残雪
旧道の残雪

しかし娘の調子が悪いことは間違いなさそうだ。
茶屋坂を下りたところに中山道の石碑と略地図があったのでそれを指して
「今ここ。この大湫に着いたらタクシーを呼ぶ」
と伝える。
大湫まであと約4km。
何とかなるかと思ったが、娘は頭痛を訴えてつらそうだ。

野辺の道、

野辺の道
野辺の道

落ち葉の道、

落ち葉の道
落ち葉の道

杉林の道というふうに

林の中の旧道
林の中の旧道

いい雰囲気の道を泣きベソをかきながら歩く。
途中で負ぶって歩くのを試みたが、
「お父さんが壊れる」
と女房に止められた。
確かに最早娘は負ぶって坂を上れるような体格ではない。

12:37PM、権現山一里塚に到着。
今日3つ目の一里塚だ。
ここも雪をかぶりながら両塚残っている。

権現山一里塚
権現山一里塚

旧道はゴルフ場の敷地を突っ切ると車道と交差し、その車道と並行しながら徐々に上ってゆく。
大した勾配でもないが、これでも娘にはきついらしい。
「もう峠いやだ、いやだ」
と繰り返す。

車道と並行する旧道
車道と並行する旧道

しかしその坂を上りきってしばらく下ると眼下に宿場の町並みが見えてきた。
娘よあれが大湫宿しゅくだ!
そして僕らは十三峠を歩き切った。
時に1:33PM。

大湫が見えてきた
大湫が見えてきた

大湫を歩きながら休憩できる場所を探す。

大湫宿
大湫宿

昔のままの道筋に雰囲気のある家屋や塀が連なる町並みだ。
元旅籠屋の無料休憩所おもだかやで休ませてもらう。
十三峠を越えてやって来た小3の娘の姿に管理人の奥さんは驚いていた。
親として鼻が高い瞬間だ。
娘はすぐに寝込むかと思ったらゲームをやっている。

おもだかや内部
おもだかや内部

さてこの先どうするかを女房と話し合う。
事前情報では大湫でタクシーを呼んで細久手まで行くと料金は約3,000円。
しかしそうすると明日はまた細久手から大湫までタクシーで戻って、御嶽までの17kmを歩くことになる。
それを考えると何とかあと6km頑張って細久手まで歩いてしまいたい。
娘もゲームをする元気があるんなら行けるんじゃないか?
そこで娘に事情を話してみると
「じゃあ頑張る」
と言ってくれた。
それで昼食込みで1時間ほど休んだ後、靴を履いておもだかやを出ると娘が
「やっぱり無理かも」
と言い出した。
足が痛いらしい。

そこへおもだかやの管理人の奥さんが追いかけて来て
「細久手まで主人の車で送りましょうか?」
と申し出てくれた。
ここで歩きを諦めるべきかちょっと迷ったが、お言葉に甘えることにした。

旦那さんの車で大湫を出発したのが2:30PM。
皮肉にも僕の計画通りだ。

門松飾りも立派な細久手の大黒屋に着くとまず3人とも爆睡。
その後娘は発熱して夕飯も翌日の朝食もほとんど食べられなかった。

大黒屋
大黒屋

これはもう歩きは無理なので朝のうちに大黒屋さんにタクシーを呼んでもらい、絶好のウォーキンング日和の下を恵那まで約8,000円かけて引き返し、恵那からマイカーに乗り換えて東京に帰った。

墨田区の休日診療に連れて行くとインフルエンザだった。
熱は40度。
潜伏期間を考えると出発前日か前々日あたりにもらった可能性が高い。
その状態で歩かせたことは可愛そうなことをしてしまった。
でもよく頑張ってくれた。
本人が
「次中山道いつ行けるの?」
と言ってくれてるのが救いだ。


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