大湫~細久手~御嶽2018.4.28
前回(2017年12月)は、1泊2日で大井から大湫、細久手を経て御嶽までの約31kmを一気に歩ききる計画だったのが、歩いている真っ最中の娘のインフルエンザ発症で大湫止まりとなってしまった。
そのため今回の計画は下記の通りとなった。
- 4月27日の夜から車を走らせて28日の朝、予約してある美濃加茂ステーションホテルの駐車場に停める。
- 最寄のJR美濃太田駅からできれば始発に乗り、多治見での乗換えを経て釜戸で下車。タクシーで大湫へ。
- 1日目は大湫から細久手を経て御嶽まで歩く。名鉄御嵩駅から電車で美濃太田に戻り美濃加茂ステーションホテルに宿泊。1日の歩き距離は約18km。
- 翌4月29日はまた電車で御嵩まで行き、伏見を経て太田の渡しまで歩く(そこから先、太田から鵜沼の手前までは2006年11月24日に歩き済)。1日の歩き距離は約11km。
- 美濃加茂ステーションホテルの駐車場まで歩いて戻り、そのまま東京に帰る。
今回この計画を遂行するに当って大きな不安要素は二つ。
一つは前回相当につらい目に会って街道歩きにも飽き気味の娘が最後まで歩き通せるか。
そしてもう一つはこの僕だ。
先週日曜日の町会対抗のソフトボール大会に駆り出され、間抜けにも両足の太ももの裏を痛めてしまった。
この足が2日間で29kmを歩くハードスケジュールに耐えられるか。
夜通し車を走らせ、車をホテルの駐車場に停めて駅に向かう。
美濃太田駅6時18分の始発には間に合わなかったが7時23分に乗ることができた。
車中から予め女房が瑞浪市観光協会に問い合わせてくれたタクシー会社に予約を入れておく。
8時12分、釜戸に到着。
即予約のタクシーに乗り8時30分に大湫宿到着。
料金は2,060円。
前回大変お世話になったおもだかや近くの公共スペースでトイレと準備運動を済ませる。向かいは本陣の跡で、敷地が丸ごと何も無い駐車場のような空間になっている。
歩き始めたのは8:46AM。
まずまずだ。
5分ほどで大湫神明神社の前に出る。
ここの樹齢1,300年、高さ40m以上の大杉の存在感に圧倒される。
そこからすぐのところにに高札場が復元されていて、そこで大湫宿は終わる。
田園の中の舗装道路を歩く。
宿場より大きいんじゃないかと思える大湫病院や、巨大な岩が二つ並んでいる二つ岩を見ながら20分弱で旧道は舗装道路から離れて右(山)側にそれる。
すぐに琵琶峠の石畳が始まる。
石が大きい上に平らでなく、歩きにくい。
それだけ往時の原型をとどめているということかも知れない。
15分ほどで頂上に着く。
岩に囲まれた切り通しとなっていて、皇女和宮の歌碑がある。
ここから石畳の坂を下る。
下り始めるとすぐに八瀬沢一里塚に出る。
両塚見事に残っている。
坂を下る途中、左手に石垣で固めた宅地の跡らしきスペースがあった。
立場の跡だろうか。
下り坂は途中で石畳から土に変わり、15分ほどで八瀬沢の集落に入り舗装道路となる。
細かくアップダウンを繰り返しながら上ってゆく。
すると頂上付近に現れるのが弁財天の池だ。
初夏の陽光を反射してモネの睡蓮を思わせる景観だ。
池から15分ほどで奥ノ田一里塚に出る。
こちらも両塚残っている。
一里塚からさらに坂を下る。
途中街道をちょっとそれた所に見晴らし台や処刑場跡があるという案内があったが、娘はもう疲れて始めているのでそちらを見て回る余裕はなかった。
平地に下ると右手に高札場の跡があり、細久手宿に入る。
11:40AM。
公民館の玄関の階段に腰掛けて昼食をとる。
12:20PMに歩き再開。
4ヶ月ぶりの細久手は前にもまして静かに感じられる。
旧い建物は前回泊まった大黒屋くらいしかないが、かといってそんなに新しい家が建っているわけでもない。
宿場のあちこちに草の茫々と生えた空き地が目立った。
集落自体がなくなってしまいそうに見えた。
右手に細久手宿本陣跡という標柱と、手書きの説明版が並んで建っている。
標柱は新しい家の前に、案内板は隣の空き地の前に建っているのだがどちらが正しいのだろうか?
このところの流れから見ると空き地のような気がするのだが。
細久手を出た街道は山の脇をうねうねと進む。
そこからまた坂をゆっくりと上り始めて、細久手から30分ほどで舗装道路から左の砂利道へとそれる。
すぐに右側に秋葉坂の三尊石窟が現れる。
石を積んで固めた石室に観音像や石仏が3対安置されている様は、まるで近年破壊されたバーミヤン遺跡のミニチュアのように見えた。
砂利道は尾根を進む。
ただし両側を樹木が鬱蒼と生い茂って眺望や開放感のようなものは無い。
砂利道に入って25分ほどで鴨ノ巣一里塚に到着。
これまた両塚残っている。
説明版によると地形の関係で北側の塚が16m東にずらされているそうだ。
またその説明版にはここから鈴鹿、伊吹、北アルプスの山々が一望できると書いてあるのだが、ここでも樹木に遮られて眺望は全く無かった。
いつの間にか街道は下り始め、一里塚から20分ほどで日当たりのいい草の道となった。
突如城郭のように立派な石垣が右手に残るのは酒造業で財を成した山内嘉助屋敷跡。
さらに小さな棚田を右に見ながら坂を下って津橋の集落に入った。
日陰に腰を下ろして休んだりしながら集落を進み、小さな川を渡った交差点(と言うより辻と言った方がしっくりする)で左を見ると農道を100mほど進んだ所に飲み物の自動販売機が見えた。
今日の行程では貴重な水分入手ポイントなので迷わず寄り道して買い求めた。
元の辻に戻ると西洋人の団体とすれ違った。
今日は何度もこういった団体と出会っている。
みんな「コンニチハ」と声をかけてくれる。
この辻からまた坂を上り始める。
25分ほどで和宮のために設けた休憩所の跡、御殿場に着く。
眺めの良い場所を選んで造られたということなので階段を上って見に行ったのだが、例によって樹木に遮られて遠くの山のてっぺんが辛うじて見える程度だった。
御殿場の向かいには「ラ・プロヴァンス」というケーキ工房があり、結構流行っているようだ。
ここで甘い物をとるのもいいかも知れないが時刻は3:14PM、最悪でも暗くなる前に山道は抜けなければならない。
本来甘い物が大好きな女房とも相談して素通りした。
するとすぐその先に今度は「森の靴工房 円歩」というオーダー靴の店があった。
これは僕の仕事にも関係するので是非寄ってみたかったが、ここも泣く泣くスルーした。
御殿場あたりから下っていた街道は和宮ものどをうるおしたという一呑の清水に出る。
ここから細い道が左に分岐していたのでそちらへ進んだのだが、途中で間違いに気付いて引き返した。
分岐するのはもう少し先だった。
20分ほどロスしてしまった。
5分足らずで正しい分岐点に着く。
ここには十本木一里塚があったらしいのだが、確認できなかった。
それにしても今日4つ目の一里塚だ。
短く見積もっても12km以上は歩いている。
小学4年生の娘が疲れるのも無理は無い。
分岐点から上った坂の頂点あたりが広重が浮世絵に描いた十本木茶屋の跡。
そこから坂を下り始めると謡坂の石畳が現れる。
平らで歩きやすい石畳だ。
坂を下る途中に、近年発見されたキリシタン遺跡への道しるべが建っている。
疲れているはずの娘が「見たい」というので行ってみた。
まず真新しいマリア像と建物があったが、通りすがりの人によるとこれは個人がやっている施設らしい。
さらに進んだところに「七御前とキリシタン信仰」という説明版が建っている。
それによるとこの地には、江戸期から仏教の墓石である五輪塔が多数あったのだが、1981年に道路工事のためにそこを掘ると十字架を彫った自然石数点が発見され、ここが隠れキリシタン遺跡であったことがわかったそうだ。
僕はその発見された現物を見たかったのだが、ここにあるのもやはり真新しいマリア像だった。
旧中山道に戻って石畳の道を下る。
この先京都までの中山道に山道はほとんど無いのでこれが最後の石畳かも知れない。
十分に噛み締めて歩きたいところだが、実際には疲れた娘を何とか歩かせるのに四苦八苦でそれどころではなかった。
旧道は石畳が終わると県道に合流する。
すぐに耳の病気にご利益があるという耳神社が右手に現れる。
趣味とはいえ音楽をやっている以上、耳は決定的に大事なものだ。
是非お参りしたかったのだが、祠へ上る結構急な石段に今の自分の脚が耐えられるのか不安だったので路上から拝んだだけで通り過ぎた。
旧道は県道から左にそれ、また山道に入って坂を上る。
そしてその道は下りになって、ヘアピンカーブの所に案内板が建っている。
余りの急坂に、荷物を背に上る牛の鼻がすれて欠けてしまうことからここは牛の鼻欠け坂と呼ばれるそうだ。
さらにこの案内板には注目すべきことが書かれていた。
中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。
「旧中山道」を「1日中山道(いちにちじゅうやまみち)」と読み間違えるのは街道ウォーカーには定番の中山道ジョークだが、その山道ともどうやらお別れの時が来たらしい。
平地に下りた旧道は農地の中をあぜ道のように抜けてから山すそを進む。
そして陽の傾きかけた井尻の集落をジブザグに抜けて国道21号線に合流する。
いつもなら国道に合流すると興が冷めるものだが、今日ばかりはこれで陽が沈んでも何とかなるという安堵感がまさった。
合流してすぐの右手に和泉式部廟所がある。
説明版によると平安三大女流文学者として知られる和泉式部は気ままな旅の途中この地で病没したと伝わる。
都で浮名を流しまくっていた女がこんな寂しい所で最期を迎えるとは。
ただし和泉式部の墓所と伝わる場所は日本各地にいくつもあるらしい。
さて国道21号線はその名の通りこんもりと丸い丸山を巻くように左にカーブするのだが、2001年発行の「歴史トラベルガイド 中山道の歩き方 美濃路をゆく」(学研)の地図では直進しており、カーブする道は無い。
どうやらこの17年の間にカーブする道に付け替えられたらしい。
よく見るとカーブ地点のガードレールの先に直進する道が歩道だけでつながっているのでそちらを進んだ。
丸山から15分で旧道は左に分岐する。
10分足らずで御嶽宿に入ったと思われるのだが、宿の入り口は判然としなかった。
夕暮れの御嶽宿を歩く。
ここの本陣跡も何も無い駐車場になっていた。
突き当りに今日のゴール地点の名鉄御嵩駅が見えてきた。
6:17PM、名鉄御嵩駅に到着。
歩きに歩いた18km。
娘は文句をたれながらも歩き切った。
大したものだ。
僕の脚も何とかもった。
明日も頑張ろう。