日本橋~千住~(梅島駅)2021.10.9
地下鉄銀座線日本橋駅の改札を出て、日本橋そのものに一番近そうな出口を探してウロウロしていると日本橋を紹介する大きな案内板があり、それを見るとどうやらこのあたりが近そうなので階段を上って地上に出る。
そこからひとつ角を曲がると正面に「日本橋」という扁額がかかった高速道路が見えて来る。
その下に本物の日本橋が架かっている。
中山道、東海に続いて3度目の日本橋だ。
これから女房と二人で日光道中を歩く。
中山道は美濃路の途中、東海道は遠州路に入ったところ。
なのになぜ日光道中を歩き始めるのかと言えばそれはひとえに資金不足だ。
静岡や岐阜まで遠征して一泊するほどの資金は手元に残っていないのだ。
そこで全部日帰りで行けそうな日光道中を歩いてみようということになった次第。
さてこの日本橋、例によって頭上を高速道路に覆われた惨めな姿だ。
施された見事な装飾もまるで意味を為さない。
高度成長期における日本人の都市景観への思慮のなさを象徴している。
この高速道路を撤去して地下化することが決まっているそうだが、本当に実現するのだろうか?
陽光に照らされる日本橋の姿を僕は生きているうちに見ることができるのだろうか?
10:03AM、日光道中を歩き始める。
といっても最初は中山道と重なる区間を歩く。
名のある老舗や、デパート、重厚感のある銀行などが建ち並ぶハイソ感漂う通りだ。
500mほどで右折して中山道と分岐する。
現代の本町通りが日光道中だ。
日光道中は間もなく昭和通りに突き当たる。
地下通路をくぐって昭和通りを突き抜ける。
地上に出てしばらく歩くとハイソ感はみるみるうちに薄れて、雑居ビルと電線が入り乱れる雑然とした通りとなる。
その先には東京スカイツリーが見える。
あのふもとで3年前まで暮らしていた。
今は埼玉暮らしだ。
その先日光道中は馬喰横山の問屋街を抜け、江戸通りと合流して浅草橋を渡る。
橋の上から右を見ると係留された屋形船の列の向うに柳橋が見える。
橋の下を流れる神田川は、江戸城の外堀でもある。
橋を渡った左側には浅草見附跡の碑が建っている。
江戸期にはここに江戸城の城門があり、出入りを見張っていた。
つまり今僕らは江戸城を出たことになる。
その先は浅草橋界隈を歩く。
このあたりにかつて僕が11年働いた会社があった。
また当時組んでいたバンドでドラムを叩いていた女性が働いている中華料理店があって食べに来たこともあった。
どちらも今はもう存在しない。
ここから先しばらくは僕の半生を振り返る道のりになりそうだが、しばらくお付き合い願いたい。
江戸通り沿いの中華料理店で早めの昼食をとって12:00PM前に歩きを再開する。
江戸通りを北上して蔵前を通り抜けて浅草に至る。
雷門に突き当たって右折する。
このあたりに日光道中最初の一里塚があったはずだが、今それを示す物は何も見つけられなかった。
東京の代表的な観光地である浅草には、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除されたこともあって人手がかなり戻ってきている印象だ。
日光道中が隅田川に架かる吾妻橋に差し掛かる手前で左折する。
北上する街道の右手の路地の先は台東区の隅田公園。
その先は隅田川。
対岸に見える大きな建物は墨田区役所。
あそこに婚姻届けや出生届を提出したものだ。
3年前の転出届は女房に出してもらった。
すぐに右側に言問橋が現れる。
この橋を車で渡るときに見えるスカイツリーが好きだった。
渡ればすぐに住んでいたマンションがある。
街道上からそのてっぺんあたりが辛うじて見えた。
浅草をさらに北上すると靴関係の問屋や材料屋が集中している。
浅草橋の会社の次に1年ほど別の会社に勤めた後、足立区の靴工場に15年勤めた。
その当時この界隈には日常的に通っていた。
しかし歩くのは初めてだ。
靴産業の斜陽振りを象徴するかのように閑散としている。
勿論土曜日だということもあるが、正直平日でも大したことなかった。
その先、街道を横切るように用水路と遊歩道が通っている。
これは江戸時代の山谷堀の跡で、当時の遊び人は隅田川からこの山谷堀を猪牙舟(ちょきぶね)で吉原まで通っていた。
現在は山谷堀公園となっている。
この公園沿いの靴問屋にもよく通った。
桜の季節にそこから見るスカイツリーも好きだった。
さらに北上すると泪橋の交差点に差し掛かる。
小塚原の刑場に引き立てられる罪人がここで身内と涙の別れをしたのだそうだ。
そういえば東海道の品川宿のはずれにもこれと全く同じ由来の「泪橋」があった。
その先の日光道中は鉄道に行く手をふさがれるので跨線橋で越える。
橋を下りたところにあるのが小塚原の刑場跡だ。
今は延命寺という寺になっており、境内には刑死者を供養するために寛保元年(1741)に造立された首切り地蔵が建っている。
そのほとんど隣には回向院。
安政の大獄により小塚原で処刑された吉田松陰や橋本左内の墓がある。
なおこの辺り一帯の日光道中は現在「コツ通り」と呼ばれている。
なにやら禍々しげな呼び名である。
コツ通りを抜けた日光道中は素戔雄神社に突き当たると共に国道と合流して右折する。
この辺りから日光道中最初の宿場である千住宿が始まっていた。
するとすぐに現れるのが千住大橋だ。
今架かっているのは昭和2年(1927)に架けられた鋼橋だが、元々は家康の江戸入府の後にここより200mほど上流に架けられた木橋だった。
隅田川に最初に架けられた橋である。
さてその由緒ある橋の上に立ってみても上流側は水道橋、下流側は反対車線の橋梁が邪魔で視界が開けず何の趣もない。
橋を西から東に渡り切ると左側に小公園があって「奥の細道矢立初めの地」という碑が建っている。
元禄2年(1689)3月27日、深川の芭蕉庵を舟で発した松尾芭蕉は千住で舟を下り、この地で「奥の細道」最初の句を詠んだ。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
日光道中はすぐに足立市場の前で国道から右にそれる。
その入口に「千住宿奥の細道」というモニュメントのスペースがあり、そこの説明板によるとこのあたりはかつては青物市場が建ち並ぶいわゆる”やっちゃ場”であったそうだ。
さっきの足立市場はその名残なのかも知れない。
日光道中は墨堤通りを超えて千住ほんちょう商店街となる。
その手前の右側に一里塚跡がある。
日光道中で二つ目の一里塚だ。
左側には高札場跡。
この辺りは完全に現代の商店街だが、一軒一軒の区画に往時の面影を見ることができる。
宿場の各戸には間口の幅によって租税が決められていた。
なので宿場には間口に対して奥行きが極端に深い家屋がよく見られる。
ここ千住宿にもそれがわかりやすい建物がいくつか見られた。
千住ほんちょう商店街はなかなかに活気のある商店街だ。
中山道の板橋、東海道の品川も活気があった。
東京の旧宿場はどこも元気なようだ。
日光道中は北千住駅に向かうきたロード1010と交差する。
靴工場勤務の15年間、バスで通い続けた通りだ。
バス通りを渡ると今度は宿場町通りとなる。
ここも活気がある。
入ってすぐ左に本陣跡の標柱がある。
商店街の活気に埋没してわかりにくい。
2:20PM、千住街の駅という無料のお休み処で休憩する。
歩きを再開して街道右手の児童遊園が高札場跡。
この公園には学校に上がる前の娘を何度か連れて来たことがあったが、ここが高札場跡だったとは全く気が付かなかった。
商店街の店が途切れて人通りもまばらになったあたりに現れるのが伝馬屋敷の面影を今に伝える横山家住宅だ。
江戸後期の木造建築が、関東大震災や東京大空襲にも耐えて今に残っているとは驚きだ。
実際屋根には空襲の焼夷弾で空いた穴が残っているそうだ。
ちなみにこの家の敷地も、間口23.5mに対して奥行きが102mという細長い区画になっている。
その向かいには江戸中期から手描きの絵馬を描き続けているという千住絵馬屋・吉田家がある。
当代は8代目で、昭和58年(1983)に足立区登録無形民俗文化財となったそうだ。
それは現在でも続いているのだろうか?
この説明板自体が昨年令和2年のものだから今現在は大丈夫と思われるが、後継者がいるのかどうか、気になるところだ。
その先の日光道中は路地を抜けるように折れ曲がって荒川にぶつかる。
大正13年(1924)に開削された人工河川で往時の街道筋は消滅しているので千住新橋で対岸に渡る。
渡り終えると土手の上を北に進む。
左手の荒川の水面と、右手の土手下の地面を比べると明らかに地面の方が低い。
そこに今僕が勤務する会社もある。
土手の上から旧道の入り口が見えたところで階段を下り、高速道路をくぐって日光道中と再会する。
その道は現在の僕の通勤ルートでもある。
3:39PM、梅島駅に着いたところで今日の歩きを終える。
次回は現在の職場から自宅に向かって歩く旅になる。