(梅島駅)~草加~(新越谷駅)2021.11.6

9:12AM、現在の職場の最寄り駅でもある梅島駅前を歩き始める。

梅島駅前

女房はかつてここに「山弦」というギターデュオのライブを見に来たことがあるそうだ。
その店を探しながら歩いたが見つからなかった。
何しろ20年以上前の話だ。
ちなみにギターデュオのうちの一人が、後に女優の松たか子と結婚する佐橋佳幸だ。

15分ほどで街道左側に「将軍家御成橋 御成道松並木跡」と書いた標柱が現れ、街道から左にそれる道の両側に石塔が建っている。
この道の先に2代将軍秀忠、3代将軍家光が鷹狩りや日光社参の際に立ち寄ったという国土安穏寺があるそうだ。
今は寄らずに素通りする。


安穏寺への道

9:40AM、六月の一里塚があったらしいという島根鷲神社前交差点に着いたが、何の名残も見当たらなかった。
そもそもこの辺りの道は旧街道にしては真っ直ぐ過ぎて少々味気ない。

六月の一里塚付近

そこから10分足らずで街道から右にそれる路地を数メートル入った所に成田道の道標がある。
この路地が成田まで続いているということだろうか?
それにしてもなぜ日光道中沿いではなく、路地を入ったところに道標がるのだろうか?
道標が動いていないとすれば、現在の街道は旧街道から数メートルずれて通されたということかも知れない。
そうならばこの辺りの旧街道にらしさが乏しいことの説明もつくのだが。

成田道の道標

そのほんの少し先の五差路には増田橋道標が建っている。
この五差路のうちのどれかがかつて見沼代用水の跡で、それに増田橋が架かっていたものと思われる。

増田橋道標

その先、一旦右にそれたりしながら日光道中は国道4号バイパスにぶつかる。
ガードの向うにこれから進む旧道の入り口が見えてはいるが、無機質な景観だ。

国道4号バイパスの向うの旧道入り口

その道を進むとすぐに毛長川にぶつかる。
東京と埼玉をこのちっぽけな川が隔てている。
こちらは東京都足立区、渡れば埼玉県草加市。

毛長川

10:30AM、水神橋を渡って埼玉県に入った。
日光道中は県道49号線だ。

埼玉県に入る

20分ほどで「火あぶり地蔵尊」という恐ろし気な名の付いた祠に行き着いた。
するとどこからか農作業中のようなおばさんが現れて謂れを説明してくれた。
それによると、このあたりの家に奉公していた娘が危篤の母に会うために休みを願い出たが許されず、この家が火事になれば実家に帰れると考えて放火してしまい火あぶりの刑となった。
村人がその娘の供養のためにこの地蔵を祀ったとのことだ。

火あぶり地蔵尊

11:00AM、草加の一里塚があったらしいという場所に着いたが何の名残も説明の類もなかった。

草加の一里塚付近

11:07AM、日光道中は県道49号線から左にそれて草加宿に入る。
その分岐点には「今様草加宿碑」という大きめの標柱が建っている。
今様草加宿とはどういう意味だろう?

草加宿に入る

宿に入ってすぐの草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商・大和屋の跡だそうだ。
なんと、全国2位の質屋だった。
それじゃ随分恨みも買ったんじゃないかって、別にこっちが心配することでもないか。

大和屋跡

草加宿に宿場の雰囲気は乏しい。
わずかに道幅の狭さが往時の面影を伝えるくらいだ。

草加宿

11:24AM、葛西道道標に行き着く。
葛西というのは今の江戸川区の葛西だろうか?
そういえば葛飾区で葛西城跡という説明板みたいな物を見たような気もする。
今ここには特に説明はない。

葛西道道標

その先、宿場のほぼ中央にあるのが国の登録有形文化財藤城家。
宿場時代の面影を伝える貴重な遺構だ。
母屋の裏には蔵も建っている豪壮な構え。

藤城家

11:39AM、大川本陣跡を示す黒い石碑が街道左手に唐突に現れる。
背後はマンションになっていて往時の敷地さえわからない。

大川本陣跡

その向かいは宝暦年間以後大川本陣に代わって本陣を務めた清水本陣の跡。

清水本陣跡

草加といえば勿論煎餅だ。
宿場の中でも煎餅屋はかなり目立った。
それと共に「やまとや」の屋号を掲げる店がいくつかあった。
宿場の入り口にあった豪商大和屋と関係あるのだろうか?

ヤマトヤスポーツ

宿場の出口が見えてきたあたりにあるのが安政の大地震にも耐えたという久野家住宅だ。
現在は無料の休憩所になっている。

久野家住宅

11:59AM、宿場の出入り口に特有の、道筋が鉤型に屈曲する桝形を通って草加宿を出る。
出口付近にある施設が今日オープンしたようだが、何の施設だかわからなかった。
宿場の入り口にあった「今様草加宿」もそうだが、通りすがりの旅人には意味や意図が伝わらないものが目立った。

草加宿を出る

宿場を出ると同時に始まるのが草加松原として有名な松並木だ。
まずは松尾芭蕉の銅像が迎えてくれる。

松尾芭蕉銅像

草加松原は天和3年(1683)に綾瀬川を改修した際に植栽した約1.5kmの松並木。
江戸時代から名勝地として知られていた。
現在の松は近年の植樹による物が大半だが、所々に往時からあったと思われる老木も点在している。

草加松原の老木

都市の中の別天地のような並木道を歩く。

松並木を歩く

県道49号線沿いのガストで昼食をとり、1:48PMに草加松原を再び歩き始める。

草加松原を再び歩き始める

路傍には句碑や文学碑が点在するのだが、ほとんど素通りしてしまった。
文学部国文学科出身の人間としてはお恥ずかしい限りだが、なぜか興味がわかないのだ。
年齢と共に知的好奇心が薄れてしまったのだろうか?

路傍の文学碑

さらに松原を歩く。

草加松原

2:00PM、人と自然が環となって治水に取り組むという意味を込めたドーナツ型のモニュメントがある場所で草加松原は終了する。
素晴らしい道だった。
都市部によくぞこれだけの松並木を残してくれたものだ。

草加松原の北端

そこから先の日光道中は県道49号線を左にそれて綾瀬川沿いを進む。
対岸には藤助河岸という江戸時代の港湾施設を復元した建物が見える。

藤助河岸

そのすぐ先にある蒲生大橋で綾瀬川を渡った所にあるのが蒲生の一里塚。
埼玉県内の日光道中では唯一現存する一里塚だそうだが、今小公園になっている現地を見てもどれがその塚なのか判然としない。
同じ都市部の志村の一里塚(中山道)あたりと比べてもわかりにくかった。

蒲生の一里塚

その少し先に進むといかめしい冠木門が現れ、その先に清蔵院という寺がある。
そこの山門の龍の彫刻は日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎の作だという地元の言い伝えがあるらしい。
ところがその龍が夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らすという伝説のせいで金網で覆われてしまっている。
そのせいで今山門の真下から仰ぎ見てもどういう彫刻なのか全然わからない。

清蔵院の山門

清蔵院のあたりで日光道中は県道49号線と合流する。
そこから先は何の変哲もない幹線道路を歩く。
3:12PM、日光道中(県道49号線)が新越谷駅に向かう道と交差する地点を今日のゴールとして、新越谷駅から帰宅した。

新越谷駅入り口交差点

次回はここから、春日部市内の自宅まで歩く予定。


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