(新越谷駅)~越ヶ谷~(自宅)2021.11.20
新越谷駅駅前のむさしの森珈琲で優雅に朝食をとる。
何せ今日はここから春日部市内の自宅に帰るだけなので時間的にも余裕がある。
9:51AM、新越谷の駅前から伸びる道が県道49号線にぶつかる地点から今日の街道歩きをスタートする。
何の変哲もない幹線道路を1kmほど歩いたところで右側に照蓮院という寺が現れる。
ここの墓所には「千徳丸供養五輪塔」がある。
天正10年(1582)に甲斐武田家が滅亡すると自刃した勝頼の遺児千徳丸を家臣がこの村に連れ帰って潜伏していたが、早世してしまった。
その供養塔ということらしいが、初めて聞く話だ。
よく信長の残党狩りを潜り抜けてここまで来られたものだ。
照蓮院のすぐ先で日光道中は県道49号線から左にそれる。
県道よりも細くなった道を1kmほど歩いたあたりで越ケ谷宿に入ったらしいのだが、それらしい雰囲気もなければ案内もない。
所々に旧い家屋が点在するのみである。
すると通りすがりのおばさんが僕らを見て話しかけて来た。
生まれた時からずっとここに住んでいるそうだ。
昔はもっと人通りがあったあったとのこと。
おばさんに別れを告げて歩を進めると街道は元荒川に突き当たる。
そこで街道を右にそれて川沿いの道を進むと越谷御殿跡に行き当たる。
ここに徳川家康、秀忠が鷹狩りに出向く際の休息所があった。
しかし明暦3年(1657)の振袖火事で江戸城が全焼すると御殿は解体されて江戸城の復興に充てられた。
御殿跡からさらに川沿いを50mほど進むと今度は「建長元年板碑」という史跡が現れる。
板碑とは一種の供養塔だが、これは鎌倉時代の建長元年(1249)の物で、かなり古い部類に入るらしい。
しかもかなり大きい。
歴史に理解のある家康は御殿造営の邪魔になりかねないこのでかい板碑を撤去せず当地に据え置いたと見える。
街道筋に戻り、元荒川を渡る。
渡ってすぐ左につい最近まで旧い建物の飲食店があって、女房はそれを通勤電車から見て印象に残っていたのだが、今その建物は無くなって駐車場になっている。
今調べてみると饂飩屋というその店(創業400年の老舗うなぎ屋)は、なんと2010年2月に隣接する住居の火事でご主人と当時26歳の娘さんが亡くなってしまっていた。
それで現在の姿になってしまったものと思われる。
なんともショッキングな話だ。
越ケ谷は日光道中で最大の宿場だったが、明治期の2度の大火で往時の街並みはあらかた失われた。
近年まで残っていた老舗さえ火災で失ってしまった。
元荒川を渡っても往時の名残は見当たらず、それを説明する説明板の類さえない。
同じように宿場風情が失われた隣の草加宿が空回りしながらも往時の名残を伝えて盛り上げようとしているのとは対照的に思える。
なんだか寂しい旧宿場町だった。
越ケ谷宿を出、北越谷駅前の王将で昼食をとってまた歩き始める。
北越谷駅の前から500mほどで東武線のガードをくぐって線路の西側に出る。
すると元荒川の土手の上に庚申塔を兼ねた道標が建っている。
「古奥州道道標」とのこと。
確かにこれから進む日光道中とは別に土手の上をゆく道があることはある。
これが古奥州道だろうか?
その先も特徴のない道を延々と歩き続ける。
わずかに蛇行する道筋に往時の名残が見て取れなくもない。
その道が国道4号バイパスにぶつかる手前に、敷地内に大きな枯れ木が立っている保育園が見えてきた。
距離的にこのあたりに一里塚があったはずなので、もしかしたらその名残かも知れない。
1:58PM、前回は西から東へとくぐった国道4号バイパスのガードを今度は東から西にくぐる。
その先はまた特徴のない生活道路が続いて国道4号線(バイパスではない)に合流する。
その途中に「間久里の立場」の跡があったらしいが気付かずに通り過ぎてしまった。
立場ファンの自分としては失態だ。
ここから先は生活圏だ。
せんげん台のヨークフーズで夕食のおかずを買う。
そして2:58PM、新方川にかかる戸井橋を渡って現住所のある春日部市に入る。
通勤等で何百回と渡った橋だが、歩いて渡るのは初めてだ。
陽の傾いた国道を歩き、3:23PM、自宅最寄りの交差点で今日の歩きを終え、そこから200m歩いて帰宅した。