栗橋~中田~古河2022.4.9

9:00AM、栗橋駅から前回のゴール地点の栗橋駅入口交差点に向かって歩き始める。
するとすぐに「静御前の墓」の前を通る。
静御前とは源義経に愛された女性。
平氏を滅ぼした義経は兄・頼朝に疎まれて奥州に落ちのびる。
義経を追って奥州を目指した静だったが、途中で義経討死の報せを受けて悲しみに暮れながら引き返す。
しかしその途中、ここ栗橋で病に倒れて世を去った。
という伝説に基づいて600年後の江戸時代後期に墓碑がここに建てられた。
以上は現地の説明板から得た知識だが、その説明板の真新しさから察するに現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」による来訪者増加を見込んで新調された物と見える。

静御前の墓

9:23AM、栗原駅入口交差点から今日の日光道中歩きを始める。

栗橋宿を歩き始める

ガイドブックでは街道右手に本陣跡があることになっているのだが、それを示す表示物はない。
ただその場所に本陣と同じ苗字の表札を掲げた民家がある。
そこが本陣跡かも知れないが、特定はできなかった。

本陣跡付近

そのすぐ先の空き地には「栗橋関所跡」の石碑が建っている。
かつて利根川の川岸に日光道中唯一の関所があった。
この碑は関所廃止後の大正13年(1924)に地元有志の手によって建てられたのだが、度重なる利根川の河川改修工事によって移転を繰り返し、現在地には平成29年(2017)に仮移転されたそうだ。
ということは現在行われている改修工事が終わればまたいずこかへ移転するのだろう。
そんなこともあってこの関所跡には、箱根、碓氷、木曽福島の関所で見られたようなロケーションによるリアリティはまるで感じられなかった。

栗橋関所址

その先すぐ街道は大きな工事現場に突き当たる。
ガイドブックでは八坂神社があるはずの場所が更地になって掘り返されている。
どうやらこの一帯をスーパー堤防として埋める前に、神社の跡地を発掘調査しているらしい。
神社はこの先の盛り土の上に移転しているようだ。

神社跡の発掘現場 高台には移転した神社

この工事のために道筋がガイドブックとは変わっていしまい、神社の裏手にあるはずの関所番士屋敷跡や、病に倒れた静御前が養生したという経蔵院は見つけられなかった。

旧街道は消滅しているので是非もなく利根川橋を渡る。
橋の上で埼玉県から茨城県に入る。
旧国名で言えば、武蔵国から下総国に入ったことになる。

茨城県古河市に入る

かつてこの下総側の河川敷に中田宿があった。
利根川の川越えを控えた宿場で、橋はなく「房川の渡し」が置かれていた。
明治末からの河川改修により宿場は消滅し、現在河川敷には菜の花が咲き乱れるのみである。

中田宿跡か

橋を渡ると堤防沿いに左に折れ、坂を下り切って右にカーブする。
このカーブした地点からが再び旧街道だ。
そして関所は元々栗橋ではなく、ここ中田に置かれていた。

中田関所跡

ここから先は直線道路が続く。

日光道中の直線道路

途中、真新しいアスファルトの駐車場があり、「鶴峯八幡宮参拝者用乗用車駐車場」という大きな看板が建っている。
その看板の文字が横浜家系ラーメン店の看板を思わせるようなど派手な書体で、神社の駐車場にしては違和感がある。
しかもその先にはまだ2か所ほど同じ神社の駐車場があり、その中には大型バス用の駐車場まである。
鶴峯八幡宮は源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したもの。
まさかこれも大河ドラマを当て込んで整備したのだろうか。
だとしたらやり過ぎのような気がするのだが・・・。

鶴峯八幡宮駐車場

などと考えていたらとんでもない見当違い。
鶴峯八幡宮では近く、地域活性化のために「つるマルシェ」というイベントを開くそうだ。
また鶴をかたどった御朱印が大層人気で、観光バスの御朱印ツアーが来るほどらしい。
派手過ぎる看板の書体はその御朱印をかたどったものだろう。
駐車場も納得だ。

鶴峯八幡宮

そのすぐ先の光了寺という寺は、元は栗橋にあって静御前を葬った高柳寺が中田に移転して光了寺となったものらしい。

光了寺

JR東北本線の踏切を渡ると広々とした道路の両側に若い松の並木が続いている。
ここはかつて「中田の松原」と呼ばれた松の名所だったが、戦時中に松根油を採取するために伐採してしまった。
今ここにある貧相な松並木はその復元を目指しての物らしい。

中田の松原

その先も単調で退屈な一本道が延々と続く。
歩道が広くて歩きやすいのが救いだ。

10:58AM、ガイドブックに立場茶屋跡と書いてある場所に来たが、それらしい痕跡は全く見当たらなかった。
だだっ広い道路の両側に民家が建ち並ぶのみだ。
中山道では立場跡の雰囲気を敏感に感じ取ることができる僕にもここは無理だった。

立場茶屋跡付近

日光道中と国道354号線の交差点近くのココスで昼食をとり、12:51PMに歩きを再開する。

10分足らずで「関宿境道」と刻まれた道標に着く。
「関宿」とは「せきやど」なのか「せきじゅく」なのか、「境」とは地名なのかそれとも何かの境界という意味なのかちょっとわからない。

関宿境道道標

そのすぐ先の古河第二高校の校庭には「原町の一里塚」が復元されている。
なにやら微笑ましい。

原町の一里塚跡

さらにその高校と路地ひとつ隔てた隣の民家の門前には「左にっこう 右みちのく」と刻まれた道標がある。
この路地が東北に続くということらしい。

みちのくへの道

続いて右にそれる路地の角にある「祭禮道道標」は、古河の産土神にあたる雀神社祭礼の際の迂回路にあたる道の案内だ。

祭禮道道標

1:20PM、前方に宿場の入口であることを告げる桝形の名残らしき鉤型の曲がり角が見えてきた。
古河宿だ。

古河宿入口

かつての古河宿は、見事な松並木が続き、その松並木の間から古河城や筑波山、富士山、浅間山まで望める景勝の地だったと伝わるが、現在では平凡な住宅街に過ぎない。
道路は良く整備されて歩道は広く、電柱も地下化されているのかほとんど見当たらない。
従って歩きやすい。
しかし宿場風情といったものはほとんど感じられない。

古河宿

古河には古河城というお城があった。
室町から戦国にかけては古河公方、江戸期には古河藩の城であった。
今街道左手の路地の入口に「古河城御茶屋口門跡」という碑が建っている。

古河城御茶屋口門跡

徳川将軍の日光社参の際は古河城に宿泊することになっており、その一行はここで街道を左に折れて城に向かった。
今、江戸初期の幕権華やかなりし頃の威風堂々たる行列をイメージしながらこの道を辿ってみても無駄なことだ。
なぜなら古河城は明治の廃城令で廃城となり、今そこには渡良瀬川の河川敷があるのみである。


雑然とした雑居ビルの敷地の一角に「古河城下本陣址」の碑を見たところで今日の日光道中歩きを終わりとして古河駅に向かった。

古河城下本陣址

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