古河~野木~間々田2022.10.29

9:14AM、古河宿本陣跡の前で軽く準備運動をしてから今日の歩き旅を始める。

歩き始めてすぐの交差点に「左日光道 右江戸道」という文久元年(1861)建立の道標があるので左折する。

日光街道古河宿道標

そしてまたすぐに右折すると「武蔵屋」という創業100年を誇る鰻料理店の立派な建物がある。
この辺りは往時は遊郭だったということだが、今その名残や雰囲気は全く見当たらなかった。

かつて遊郭だったあたり

これという目印もなく、いつの間にかという感じで古河宿を出てしばらく歩くと直線上に野木神社の鳥居が見えてきた。
ガイドブックではその手前に下総国と下野国の国境があることになっている。
しかしそれらしい案内の類は何も見当たらない。
茨城県古河市から栃木県野木町に入るところだというのにそれを示す道路標識もない。
と思いつつ後方を振り返ると「茨城県」「古河市」という標識はあった。

茨城と栃木の県境

茨城と栃木の県境が国境と一致しているのならそこが下総と下野の国境ということになるのだが確証は持てなかった。

そのすぐ先で街道は国道4号と合流する。
右手遥かに筑波山が見える。

筑波山

すぐに街道左手の民家のブロック塀沿いに「野木宿入口」という案内板が唐突に現れる。
もう野木宿に入ったのだ。
古河からたったの2.7kmである。

野木宿入口案内板

宿場といってもそれらしい雰囲気はまるでない。
わずかに本陣・脇本陣跡に当時と同じ姓の民家があり、その敷地に蔵があるのが見えるくらいだ。

脇本陣跡

そのすぐ先の民家の生け垣に埋め込まれるように「野木の一里塚跡」の説明板が立っている。

野木の一里塚跡

そこから10分ほどで左に分かれる細い道があり、そこに道標が建っている。
この道は「日光山近裏道」と呼ばれた日光への脇往還であった。
日光道中は宇都宮まで奥州街道と重複していて荷物や旅人で混雑するので、迂回路の入口を案内する物だ。
また大平山への参詣道という性格もあったらしく、実際道標には「是より太平山道」と刻まれている。

野木宿道標

そのすぐ先の観音堂の辺りが野木宿の出口で、かつてはここに土塁と矢来柵があった。

野木宿出口あたり

宿場を出て特徴のない国道を1時間ほど歩くと左側に芭蕉の句碑が建つ法音寺があり、路地を挟んだ隣に豆腐屋が廃業した空き家がある。
かつてこの辺りは筑波山が正面に望める景勝の地で、数軒の茶屋が建ち並ぶ立場であった。
残念ながらここも往時の名残は全く失われてしまっている。

立場跡

11:40AM、小山市に入る。
するとすぐに細い道との交差点に馬頭観音が建っている。
この馬頭観音は、街道の西を並行して流れる思川の河岸へ至る道を案内する道標を兼ねている。

馬頭観音

そこから5分ほどで「乙女の一里塚」に着く。
わずかな土の盛り上がりの上に榎の大木が立っている。
一応現存する貴重な一里塚の筈だが何の案内もない。
ラブホテルの看板の陰に隠れた惨めな姿だ。

乙女の一里塚

「らーめん千里」というラーメン屋で昼食を取り、12:25PMに歩きを再開する。
相変わらず殺風景な国道をひたすら歩く。

殺風景な国道

25分ほどで乙女の交差点に着く。
ここを左折する道は「乙女河岸道」といい、乙女河岸に至る。

乙女河岸道

慶長5年(1600)、ここ小山の地で石田三成挙兵の報に接した家康は小山評定を経て江戸に戻る際はこの河岸から乗船した。
また日光東照宮造営の際に江戸から運搬された資材はこの河岸で陸揚げされた。

12:56PM、間々田駅入口の交差点で今日の街道歩きを終了して間々田駅に向かった。
時間的にはまだまだ続けられたが、この単調な道をこれ以上歩く気力は湧かなかった。
次回は街道風情的なものを期待したいものだ。


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