(三柿野駅)~加納2022.11.12
2年ぶりの中山道。
今回からは再び夫婦ふたりで歩く。
そして今回はホテルがとれなかったので初めて車中泊を試みる。
11月12日(土)の未明に埼玉の自宅を車で出発。
途中休憩を重ねながら10:22AMに岐阜駅前のコインパーキングに車を置く。
名鉄岐阜駅まで歩き、各駅停車で前回のゴール地点の三柿野駅に向かう。
その電車が三柿野に近づいた頃、突如すさまじいジェット音が鳴り響いた。
しかもその爆音はどんどん大きくなる。
まるでこちらに近づいているようだ。
正直北朝鮮のミサイルが飛来したのかと本気で思ったが、窓から外を見ると戦闘機がアクロバット的な飛行をしている。
そして今日の歩きのための地図を良く見ると、三柿野には航空自衛隊の基地がある。
どうやらその関係らしい。
それにしても日常世界を全て崩壊させてしまうような恐ろしい轟音だ。
三柿野駅で下車して準備運動をしている間もアクロバット飛行は続いている。
駅前のポスターを見ると明日この基地で航空祭というのがあるらしい。
これは明日のためのリハーサルといったところか。
駅では明日の人出に備えて行列整理のコーンなどを置いている。
「そんなに人が来るものなのか?」と思いつつスマホで調べてみると事前の抽選で当選した人だけが基地に入場できるということなのだが、その数限定3万5000人!
これには驚いた。
ホテルもとれないはずだ。
11:12AM、断続的に鳴り響く爆音の中、今日の中山道ウォークを始める。
しばらくは基地沿いの殺風景な国道21号線を歩く。
10分ほどで国道から右に旧道が分岐する。
道幅が狭くなって多少は旧道らしくなる。
すぐに六軒茶屋一里塚跡がある。
その名の通りかつてはここに立場茶屋があったそうだが、今その雰囲気は感じられない。
歩き始めて1時間もたたないうちにお昼となったので、街道右手にあった「くねくね」というラーメン屋で昼食をとって12:25PMに歩きを再開する。
20分ほど歩き、那加橋の上から見る新境川の紅葉が美しかった。
「なかモール21」という商店街(といっても商店は点在するのみ)を抜けると旧道はまた右に分岐する。
道幅は一層狭くなり、住宅街の中をくねくねと通る。
そのくねくね道をしばらく歩いて1:15PMに間の宿 新加納の入り口に着いた。
鵜沼宿と加納宿の間が約16.5kmと長かったためここに間の宿が設けられた。
道の両側には一里塚跡を示す標柱が建っている。
宿の入り口の民家には「祝 令和2年度『手作り郷土賞』国土交通大臣表彰」という横断幕が掲げられている。
国土交通省のホームページによると手作り郷土賞とは「地域の魅力や個性を創出している良質な社会資本及びそれと関わりがある優れた地域活動が一体となったものを選定」しているそうだ。
早速その‟手作り郷土”に入ってみる。
するとすぐに突き当たるT字路で圧倒的な存在感を放っているのが今尾家住宅だ。
江戸時代には新加納を治めた旗本坪内氏の御典医だった今尾家の見事な黒塀と蔵屋敷が延々と続いている。
現在は今尾医院を営んでいて、駐車場がいくつもある。
旧中山道は今尾家に突き当たって右に折れるのだが、逆に左に折れてから今尾家の敷地沿いに右に曲がると善休寺と少林寺というお寺が2軒あり、さらに進むと旗本坪内家の陣屋跡が「新加納陣屋公園」となっていて門と塀が復元されている。
塀の内側に色々と説明板が掲示されているみたいだったが、地元のティーンエイジ女子が遊んでいるようだったので入らないで引き返した。
中山道に戻り、間の宿新加納を出ると旧道はくねくねと蛇行を繰り返す。
さっきのラーメン屋の「くねくね」という店名はここからきているのだろうか。
くねくね道を1kmほど歩いて突き当たるT字路を右に曲がった旧道から路地を右に入ると切通陣屋跡がある。
陸奥磐城平藩はここに陣屋を置いて幕末まで加納を支配した。
その先の旧中山道は、南北に通る幹線道路を東西に貫く路地となる。
途中、旧い建物が残る一角もあったりする。
2:56PM、細畑の一里塚に到着。
都市部にあって両塚残している。
これは貴重だ。
そしてそのすぐ先で旧中山道から左に分岐するさらに細い道がある。
分岐点には地蔵堂と道標があり、そこには「伊勢 名古屋ちかみち」と書かれているように見える。
どうやらここから名古屋を経て伊勢へ行けるらしい。
江戸後期における爆発的なお伊勢参りブームを考えると極めて重要な道標である。
ただ現地にそのことを説明する説明板の類は見当たらなかった。
名鉄茶所駅近くの踏切前後では交通量がいきなり増える。
センターラインがあるだけの狭い道を両側から来る車が減速もせずにびゅんびゅんとすれ違う。
首都圏の比較的恵まれた道路事情に慣れた身には怖い光景に見えた。
茶所駅の踏切を過ぎてすぐ、旧中山道から左に伸びる路地を入った所にまた道標がある。
「東海道いせ路」と読めるのでこの路地が伊勢に続くらしい。
恐らくさっきの伊勢名古屋ちかみちに合流するのだろう。
ここにも説明板はなかった。
その先の中山道は複雑に屈曲する。
加納城の城下町であることから、防御のための道筋と思われる。
お陰で何度も地図上の自分の位置を見失った。
何度目かの屈曲の角の先端が幹線道路に触れかけるところに「中山道加納宿東番所跡」の標柱があるので、ここから加納宿に入ることになる。
道筋は相変わらず屈曲しつつ車道と交差する。
信号も横断歩道もなかったりするので近くの信号まで遠回りを余儀なくされたりする。
夕暮れの加納宿を歩く。
南から北に一度渡った清水川を今度は北から南に渡ったところに高札場跡がある。
この道をそのまま南下すれば加納城に至るのだが、中山道は川を渡ってすぐの加納城大手門跡の手前で右折して西に向かう。
またもや信号のない交差点を近くの信号まで遠回りして渡ったあたりが加納宿の中心部になる。
当分本陣跡、皇女和宮も宿泊したという本陣跡、西問屋跡、脇本陣跡が集中している。
本陣跡には現在同じ名前の医院が開業している。
現在はすっかり住宅街の生活道路となっている旧中山道をしばらく歩き、岐阜駅へと向かう道と交差する地点で今日の中山道ウォークを終えて朝停めた駐車場に向かった。
その後加納城を見物し、ぎなん温泉という日帰り温泉で風呂と夕食を済ませて高速に乗り、豊田上郷サービスエリアで車中泊して翌日帰宅した。
軽自動車で2人寝るのは少々窮屈ではあったが、これからも街道歩きに十分利用できる手応えを得た。