加納~美江寺~赤坂2022.12.10
本日0:00AMに埼玉の自宅を車で出発し、休憩を何度も挟みながら前回と同じ岐阜駅前のコインパーキングに8:40AMに到着。
前回この駐車場に入れたのはたまたまだったのだが、使ってみると中山道沿いでしかも駅にも近い 、実にありがたい駐車場だ。
今回はここから歩き始める。
8:53AM、岐阜駅に向かう道と旧中山道が交差する地点から歩き始める。
加納宿の西半分を歩く。
現在の加納宿は微妙にくねる道筋だけが往時の名残で、宿場の雰囲気のようなものはない。
9:05AM、街道左手の小さな神社の敷地内に西の番所跡の碑が建っているのでここで加納宿は終わりだ。
そこから住宅街の生活道路のような旧道を10分ちょっと歩くと三里一里塚跡の碑に到着する。
2001年刊行のガイドブックには載っていない碑だ。
この20年の間に置かれたのだろう。
石も新しい。
加納から次の美江寺までの道は往時は松並木だったそうだが、現在その名残は全く無い。
途中喫茶店が3軒ほど集中する一角があったが、もしかしたらこの辺りにあったという多羅野立場の名残だろうか。
そこから15分ほど歩くと右後方からもう1本の旧道が合流してくる。
これは岐阜に向かう岐阜街道だ。
合流地点から振り返ると右が中山道、左が岐阜街道で、岐阜街道の行く手の山のてっぺんには豆粒のような岐阜城が見える。
そこから1.5kmで中山道は長良川に突き当たる。
往時はここに渡しがあったが、今は河渡橋を渡る。
橋の上から渡し場の名残のような物はないかと川岸を見てみたが、それらしき物は何も見当たらなかった。
橋を渡ってから土手の上を歩いて旧中山道に再びアクセスすると、そこが河渡宿だ。
元々小さい宿場だったのだが、近年の長良川の堰堤工事によって宿場東側の半分以上が消滅してしまった。
今宿場を歩くと3軒の旧い家屋が等間隔に並んでいるのが見えるが、宿場は昭和20年の空襲で全焼しているのでこれはそれ以降の建築ということになる。
その向かいあたりに河渡宿一里塚跡がある。
河渡宿を出て2kmほどで本田立場跡があるはずなのだが、そこに案内の類はなかった。
かなり年季の入った白壁のお宅があって、そこではないかと思うのだが確証は持てなかった。
その先の旧道はますます細くなって畑の中の1本道の様相を呈する。
歩道はおろか路肩さえほとんどないので車道を歩く他ない。
その脇を車が迷惑そうに大回りして追い越してゆく。
樽見鉄道の踏切を渡ると右手に美江寺駅が見える。
さてここで考える。
今日ここまで歩いた距離は約10km。
ここを出ると約9km先の赤坂まで駅はない。
現在時刻は11:53AM。
1年で最も陽の短い冬至間近のこの時期に日没までに9kmを歩ききれるか。
また加齢と運動不足でこのところ体力減退の著しい僕らが1日19kmを歩ききれるのか。
少々賭けになってしまうが、赤坂まで歩くことにした。
実は赤坂から関ケ原までは2007年2月に歩いているので、赤坂まで行くことができれば一気に関ケ原までつながることになる。
歩き始めてすぐに美江寺一里塚跡の碑がある。
今日3つ目の一里塚。
ペースは悪くない。
既に美江寺宿に入ったらしい。
街道が左に屈曲するその手前右手に美江神社がある。
境内には高札場が復元されている。
またボランティアによって管理されているきれいなトイレを使わせてもらった。
街道に沿って左折したすぐ右側の旧い建物が旧庄屋の和田家で、美江寺城主の末裔のお宅だそうだ。
その先左側には本陣跡。
建物は平成3年に取り壊されている。
「右 大垣赤坂ニ至ル」と書かれた道標の角を右折して美江寺宿を出る。
犀川に並行する中山道を歩いているとそこから右にそれたところに「ヴァーレンカフェ」というカフェがあった。
実は2時間ほど前から昼食をとれる店を探しながら歩いていたのだが一向に見つけられずにいた。
歩きの途中でカフェに寄ると必要以上にまったりして余計な時間を費やしてしまうので避けたいところだが、この先飲食店がありそうな雰囲気もなかったのでここに入ることにした。
そして予想通り1時間以上この店で過ごして歩きを再開したのは1:59PMだった。
旧中山道は田園の中を南西に下りながら揖斐川に達する。
ここも往時にはなかった鷺田橋を渡る。
前後の道筋は護岸工事で失われており、遠回りを余儀なくされる。
橋を渡って街道に復帰するとすぐに小簾紅園という公園に着く。
幕末期、公武合体の道具として14大将軍家茂に嫁ぐことになった皇女和宮がこの地の紅葉を愛でて
おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
という歌を詠んだ。
その故事を記念して昭和の初めにこの公園ができたそうだ。
確かに園内の紅葉はきれいだった。
中山道はそのすぐ先で平野井川を渡って大垣市に入る。
すぐに土手に突き当たるので右に曲がって斜めに土手を上りながら「右 すのまた宿道 左 木曽路」と書かれた道標のところで土手上の道と合流する。
ところがこの先の道がややこしい。
土手の右にも左にも並行する道があり、どの道をとればいいのかガイドブックを見ても判然としない。
何度も行きつ戻りつしてここだろうというルートをとったが確証は持てなかった。
またこの先にもわかりにくい箇所が続いた。
ひとつには僕らが使っているガイドブック「中山道の歩き方 美濃路をゆく」(学習研究社)が発刊された2001年当時にはなかった道路が開通して道筋が変わってしまったこともあるが、分かれ道にある案内表示が大垣に入った途端に設置場所が的を射てなかったり、矢印の指す方角が曖昧だったこともあるように思う。
とにもかくにも陽の傾いた中山道を赤坂に急ぐ。
住宅街を抜けると田園の中を階段状に屈曲する。
七回り半というらしい。
4:19PM、池尻の一里塚に到着。
今日4つ目の一里塚だが、距離からすると3つ目と4つ目の間にもう一つあったはずだが、それは完全に失われて位置さえもわからなくなったと思われる。
4:28PM、杭瀬川に架かる杭瀬橋を渡って夕暮れの赤坂宿に入る。
杭瀬川といえば関ケ原の戦いの前日に行われた杭瀬川の戦いで有名だが、その古戦場はもっと南らしい。
赤坂宿に入ってすぐ、小さな川を渡ると右手に赤坂港跡がある。
江戸期以降この地は水運で栄え、明治に入ってここに港を整備して石灰を運んでいた。
4:43PM、街道左手に本陣跡の公園が現れた。
そこにある所郁太郎という幕末志士の銅像に見覚えがある。
どうやら15年前はここから歩き始めたらしい。
つまり今日はここがゴールだ。
何とか日没前に辿り着けた。
美濃赤坂駅から大垣経由で岐阜まで戻り、駐車場から車を出して埼玉に向かって走り、眠くなった岡崎のサービスエリアで車中泊して翌日帰宅した。