(磯部駅)~松井田~(横川駅)2007.6.24
ぽっかりと予定の空いた日曜日、僕らは急遽中山道の続きを日帰りで歩くことにした。
10:22AM、今にも振り出しそうな空の下、前回ゴール地点から歩き始めるとすぐに妙義山の奇怪な山影との再会である。
4か月振りでも懐かしさを覚える。
20分ほどで左手に郷原の妙義道常夜灯が現れる。
ここより50mほど手前に妙義山に向かう道が分岐しており、元々はそこに建っていた物らしい。
そしてここから先の旧中山道は草の中に消失しているので国道18号線を歩く。
その道は碓氷川の崖上にあり、展望が一気に開ける。
手前に蛇行する碓氷川と周辺の田園、緑の向こう側の市街地、そしてその背後には妙義山。
日本橋からここまでの中山道では最高の景観だ。
すぐに旧中山道はは国道から左に分岐し、30分ほど歩くと今度は右側に「西南の役碑」という物が、何体もの地蔵とともに半ば雑木林に打ち捨てられたような格好で建っている。
なぜここに西南の役碑なのか?
大きく平らな石に漢文という明治政府愛用のスタイルで書かれたその文章を読むほどの知力も根気も持ち合わせてないのだが、わずかに読めた「碓氷郡」「不生還」という語句から察するに、この地から西南戦争に政府軍として赴いて戦死した人のための碑と思われる。
であればもう少し大事にしてあげなくていいのだろうか。
11:18AM、松井田宿に入った。
旧い家屋が点在するものの、特に足を止めるほどのこともなく通り過ぎてしまった。
その途中の焼肉店「白雲亭」で昼食を取った。
大きな窓からさっき国道18号線から眺めたような景色を堪能しながらの焼肉定食だった。
12:22PM、食事を終えて店を出ると雨が降り始めていた。
こんなこともあろうかと女房が100円ショップで買っておいてくれたレインコートを着てみる。
するとこれがゴミ袋に穴を開けただけのような想像以上にチープな代物で、これを夫婦お揃いで着て歩いていたのだから相当に間抜けに見えたに違いない。
さて歩きを再開してすぐに腹痛が襲ってきた。
しかも事は急を要する。
たまたま街道を少し左にそれたところに安中市役所の施設があったのでそこに駆け込み、当直のおばさんに「すいません、トイレを貸して下さい」と頼み込んで窮地を脱した。
帰り際に「ありがとうございました」と声をかけると、
「ご苦労様です」
と返してくれた。
小雨の中、歩きを続ける。
松井田宿を出るとほどなく旧街道はさらに細い道に分岐する。
わずかにくねりながら民家の間を縫うように続き、彼方には妙義山。
上州路の白眉。
路傍のブロック塀には昭和40年代の殺虫剤スプレーのブリキ広告。
確か昭和の末期には既に町のレトロな看板として面白がられていたと記憶する。
一体この写真の人は何年ここで往来を見つめてきたのだろう
旧道は信越本線の線路にぶつかって一旦消失する。
旧道に復帰すると道は田園の中をわずかに下った後、
ゆるやかに上り始める。
1:32PM、右側の踏切の向こうに五料茶屋本陣が現れる。
と言うか、街道と茶屋本陣の間に鉄道を通してしまったということだ。
踏切を渡って見学させてもらう。
傘置き場に傘を置いていると、管理人のおばさんが僕らのレインコートを見て「ここに干していいですよ」と場所を貸してくれた。
上段の間など内部を見学し、縁側で夫婦お互いを写真に撮っているとさっきのおばさんが2ショット写真を撮ってくれた。
上州のおばさんはみんな親切だ。
茶屋本陣を出ると街道は坂を上り始める。
すぐに左側に地蔵4体が現れる。
その右から2体目の地蔵の足元には頭部が転がっている。
胴の上にあるのは仮の頭だ。
これが「夜泣き地蔵」である。
江戸時代、悪政への抗議を直訴して死罪になった名主の供養のために村人たちによって建てられたのだがいつしか首が落ちてしまった。
その首を馬方が積み荷のバランスをとるために馬に乗せて深谷まで行って捨ててしまった。
すると夜な夜なその首が「五料恋しや」と泣くので地元の人が憐れんでここまで届けて来たそうだ。
たった300年前にはこういった超常現象もあり得ることとして受け止められていたのだろうか。
さてその地蔵群の足元には「茶釜石」なる上部が平らな大きな石がある。
これを小石でたたくと茶釜のような音がするらしい。
茶釜をたたく音を聞いたことはないが、そこにあった小石で実際にたたいてみると確かにそんな感じの音がする。
どうやら内部が空洞になっているらしい。
左手に迫りくる妙義山を見ながらこの坂を上り、そして下るとまたしても信越本線にぶつかって旧道は消失するが、踏切に向かう途中の右側に碓氷神社がある。
創建は定かでないが源頼朝が境内に御所を置いたこともあるという歴史のある神社だ。
鬱蒼とした森の中を上る急こう配の石段の先に見える社には日光東照宮などには絶対にない神秘性が漂っている。
踏切を渡って復帰した旧道は線路の右を行ったり左を行ったりを繰り返しながら横川の駅前を過ぎる。
3:34PM、箱根、新居(以上東海道)、木曽福島(中山道)とともに4大関所に数えられる碓氷関所跡にたどり着く。
石段を上ると関所門が復元されている。
また通行人が手をついて通行の許可を受けたというおじぎ石が現存していたので一応手を置いてみた。
幕府権威をかさに着た役人の威張った態度が目に浮かぶようだった。
関所を無事通過してから10分ほど、旧道が国道と立体交差する辺りを今日のゴールとして横川駅に戻った。
途中の沿道には鉄道文化村もあった。
天気は良くなかったしアクシデントにも見舞われたが、旧街道歩きの神髄に触れることができたような気がする。
来て良かった。
次回は遂に中山道屈指の難所、碓氷峠越えに挑む。