(下諏訪駅)~塩尻2008.5.17
10:24AM、下諏訪駅前を歩き始める。今日はここから塩尻峠を越えて塩尻宿までの約10kmを歩く。
すぐに魁塚という史跡に着く。これは幕末の志士・相楽総三の悲劇に由来する。
慶応3年(1867)、徳川慶喜の大政奉還により薩長は武力討幕の大義名分を失った。
しかしあくまでも武力討幕にこだわる西郷隆盛は相楽総三という志士を使って江戸で数々の騒擾事件を起こさせる。
この挑発に乗った庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたことが、鳥羽伏見開戦の口実となった。
さらに鳥羽伏見に勝利した新政府軍が江戸に向かって進撃する際は、相楽は自ら結成した赤報隊を率い、先行して中山道を江戸に向かった。
その際民心を得るため年貢半減を布告しながら進んだ。
これは新政府の了解を得たものだった。
しかしその後財政のひっ迫が表面化すると新政府は態度を一変、年貢半減をなかったこととするために赤報隊は偽官軍だとして相楽らをひっ捕らえ処刑した。
明治維新のダークサイドを象徴するような事件だ。
ここはその処刑の地なのだ。
魁塚を過ぎると何故か旧中山道はどんどん細くなって、しまいには民家と民家の間の路地になってしまう。
道筋が路地から脱出して10分ほどで散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の住居が長野県宝渡辺家住宅として現存している。
安中で見たやつとそっくりだ。
11:03AM、「右中仙道 左いなみち」と刻まれた道標が残る長地東堀交差点で伊奈道を超える。
すると手入れの行き届いた生け垣が両側に続く幅3mほどの道がしばらく続く。
そして峠に向かってゆっくりと高度を上げる。
その道がいよいよこれから超えるべき山すそに接するあたりに旧御小休本陣今井家の豪壮な門と建物がある。
それなりの身分の人はこれからの峠越えに備えて、ここで一休みを入れたのだろう。
11:53AM、いよいよ峠越えが始まる。
けっこうな急坂だ。
すぐに長野自動車道岡谷インターチェンジにぶつかって方向を見失うが、何とかそれらしい道を見つけてさらに進む。
勾配はだんだんときつくなる。
街道左の路傍に巨大な岩が鎮座している。
諏訪七不思議のひとつだという大石だ。
岩の頭頂部に草が生い茂る姿はユーモラスでもあり、哲学的でもある。
そこから坂はさらにきつくなる。
上体は地面をなめるように折れ曲がり、すこしでも勾配を緩めようと道の右端から左端まで斜めに横切ることを繰り返してジグザグに坂を上る。
これを二人でやるのだからまるでスピードスケートだ。
そんなことを繰り返して12:43PMに峠に着いた。
ちょっとした展望台になっていて、諏訪湖が良く見渡せる。
和宮はここで生まれて初めて富士山を見たそうだ。
今日は晴れてはいるのだが薄く霞がかかっていて富士山は見えなかった。
ここで景色を眺めながらゆっくりと食事をとって1:48PMに再出発した。
下りは上り程の無茶な勾配ではなく、等高線に沿うような緩やかな坂道だ。
木が生い茂っていないので開放感があり5月の陽光が降り注ぐ。
路傍ではタンポポの白い種が揺れる。
気分良く歩ける道だ。
下り初めて1時間ほどで山道は終わる。
しかしその先も真っすぐな下り坂が延々と続く。
3:01AM、街道をやや左に入ったところに首塚なる物を発見。
さらに見渡すと農地の中にポツンと胴塚もある。
これは武田信玄と小笠原長時が争った塩尻峠の戦いで敗れた小笠原方の戦死者の遺体を地元の人が祀った物だ。
それにしても首と胴が別々に埋葬されるとは、つくづく恐ろしい時代だ。
さて街道は塩尻宿に向かって湾曲しながら高度を下げる。
沿道にはすずめおどしという、すずめが羽を広げたような形の装飾の付いた風格のある旧家が続く。
3:27PM、塩尻宿に入る。
塩尻は中山道の他にも伊奈街道、五千石街道などが交わる交通の要衝だったが、文政と明治の大火でほとんど焼き尽くされて往時を物語るものは何も残されていない。
しかし宿場の要所要所には「上問屋跡」とか「塩尻宿本陣跡」といった案内の標柱が実にまめまめしく設置してある。
きっと塩尻の人たちは自分たちの宿場に往時の遺構が何も残っていないのが口惜しくてならなかったのだろう。
この標柱は彼らの意地の表れと見た。
4:02AM、宿場を出て塩尻橋を渡った所で今日の歩きを終了した。
10:24AMから歩いてたったの10kmしか歩けなかった。
塩尻峠の余りにも急な上り坂とダラダラと続く下り坂で思った以上に脚が疲れてしまったのかも知れない。
街道から約1km北にあるビジネスホテルまで歩いて向かった。