日本橋~品川2009.12.13
今日から旧東海道を歩く。
中山道もまだ木曽路に入ったばかりだが並行して歩くことにした。
メンバーは僕と女房、そして背中のベビーキャリーに今年2月に生まれた娘。
さらに女房の兄貴も東海道を一緒に歩くことになった。
合計4人。
出発地はもちろん日本橋。
江戸五街道の起点となる歴史ある偉大な橋も現代では高速道路に頭上をふさがれて惨めな姿をさらしている。
魚市場が軒を連ねる魚河岸があったという日本橋川も高速道路のせいでまるで暗渠のドブ川のようだ。
東京オリンピックさえなければ・・・。
10:22AM、いよいよ東海道を歩き始める。
まずは日本橋のオフィス街だ。
そして左手に東京駅の八重洲口が見えるあたりに西洋風の石碑がある。
これは江戸時代初期にオランダから漂着して家康の通訳となったヤン・ヨーステンの記念碑だ。
八重洲という地名は彼の名から由来するらしい。
京橋を渡ると銀座だ。
言わずと知れた日本屈指の繁華街である。
中央通りが旧東海道にあたる。
かなり広い道路だが、これは江戸時代当時のままらしい。
道路左手に銀座発祥の地という石碑があり、その説明によると江戸時代初期にここに銀貨幣鋳造所が置かれ、それが銀座という地名の由来となったそうだ。
賑わう銀座の歩行者天国を歩いて、12:09PMに松坂屋のレストランで昼食をとった。
中山道ではほとんどの昼食がコンビニのおにぎりだったのとはえらい違いだ。
新橋を過ぎ、浜松町の辺りに来ると高速道路のガード下に船溜まりがあったりしてこの辺りが海に近いことを感じさせる。
そして旧東海道は都営地下鉄三田駅の前に出る。
そこに三菱自動車のディーラーがあるのだが、そこはかつての薩摩藩邸の跡だった。
有名な西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのがこの場所だ。
しかし僕はそれよりも薩摩藩邸だった場所が現在三菱の持ち物になっているということに興味がある。
三菱の創始者は岩崎弥太郎。
明治政府に食い込んで政商と呼ばれた弥太郎なら薩摩藩邸を格安で払い下げてもらうなどということもあったかも知れない。
さて、実はこの地には僕の大学時代のバンド仲間、Nが住んでいた。
新聞奨学生であるNは三田の新聞販売所に勤め、その寮がこの近くにあったのだ。
三菱自動車の脇の路地を入ってすぐ左に折れるとそこに木造アパートがあったのだが、今はその辺りが丸ごと高級マンションになっている。
20年前にはここに木造のアパートや民家があったとは想像し難い。
旧東海道に戻り大都会の道を歩く。
旧街道としての風情は皆無に近い。
3:07PM、左手に唐突に石垣で固められた構造物が現れる。
高輪大木戸跡だ。
ここは江戸の南の出入り口で、夜はこの門を閉じて治安の維持と交通規制の機能を果たしていた。
背中のポッサムというmacpac社製のベビーキャリーに乗せた娘がこの頃から何やら声を上げ始める。
「うきー」とか「ほひゃっひゃ」とか言語化困難な声だが機嫌はすこぶるいい。
どうやら娘はポッサムが気に入ったようだ。
その後少々道に迷ったりしながら3:44PMに東禅寺に着いた。
幕末の安政年間、ここには最初のイギリス公使館が置かれていた。
文久元年(1861)5月28日、この寺が尊王攘夷派の水戸脱藩浪士によって襲撃される。
幕府方の警護兵は死傷者を出しながらも襲撃者を撃退した。
境内の柱にはその時の物と思われる弾痕が今も生々しく残っている。
さて概ね第一京浜を通っていた旧東海道は八ツ山橋で左にそれ、橋を渡った所で右にそれて京浜急行北品川駅前に着地する。
ここが東海道最初の宿場、品川宿の入り口だ。
さっきまでの第一京浜とは一変して微妙にくねる3mほどの道の両側に商店が建ち並ぶ生活感あふれる商店街だ。
その一角に土蔵相模という幕末期にあった遊郭の跡地がある。
ここは過激尊王攘夷派のアジトのようになっていて、高杉晋作、伊藤博文らの長州一派もここから英国公使館(さっきの東禅寺とは別)の焼き討ちに向かっている。
幕末動乱の舞台となったこの地も今では1階にコンビニが入る平凡なマンションだ。
そのマンション脇の路地をのぞくと急激に高度を下げている。
江戸時代まではここが海岸線だったのだ。
浮世絵などを見ると海岸線沿いに宿場の家屋が建ち並んでいる様子がよくわかる。
4:32PM、明治天皇の宿舎にもなったことから聖蹟公園という名の公園になっている品川宿の本陣前で今日の歩きを終え、京浜急行新馬場駅から家路についた。
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