品川~川崎2010.1.23
新馬場駅で下車。
旧東海道は駅よりも南を通っているのだが、まずは北に向かう。
そして第一京浜を渡った先にあるのが品川神社だ。
鳥居をくぐるといきなりの急階段を上る。
背中に子供をおぶっているから大変だ。
上り切って振り返ると品川宿方面が見渡せる。
往時はここから海が見えたのだろうが、今では埋め立て地に建ち並ぶビルしか見えない。
石段を下りて第一京浜を北にちょっとだけ進んで左の細い坂道を上る。
上り切った突き当たりにある権現山公園の辺りが英国公使館の跡だったらしい。
前回跡地を訪れた土蔵相模に集まった高杉晋作ら長州の尊攘派はこの地に建設中だった英国公使館を焼き討ちにした。
この高台で火が上がれば周辺からも良く見えたことだろう。
攘夷のデモンストレーションとしては効果満点だ。
11:02AM、品川宿の本陣跡から旧東海道を歩き始める。
現在の品川宿は活気のある商店街だ。
お休み処の前を通った時、
「休んでいきませんか」
と声をかけられたので
「オムツ交換はできますか?」
と聞くと
「何とかします」
とのことだったので寄らせてもらった。
2階に通されると、事務所のパーテーションやテーブルを移動してスペースを作ってくれていた。
そこで女房がオムツを取ってみるとなんとオシッコしてなかった。
空気読め。
仕方なく交換した体で「ありがとうございます」と声をかけてお休み処を出た。
品川宿を出て、立会川駅前まで来た。
すると駅前の公園に人だかりができている。
見ると坂本龍馬の2mほどの像が建っている。
実はこの近くに幕末の土佐藩が海防を受け持った浜川砲台があり、そこに若き日の龍馬も駆り出されていたのだ。
その縁で、大河ドラマで龍馬が取り上げられる今年、高知のホテルの玄関に立っていた龍馬像がここに出張して来ているのだ。
しかしこの像には重量感というものがまるで感じられない。
女房の兄貴が近付いて軽くたたいてみると”ポコポコ”という音がした。
プラスチック製で、中は空洞らしい。
旧東海道をそれてその砲台跡に行ってみた。
黒船を迎え撃つために築かれた砲台だったが、今その遺構らしきものは見当たらない。
対岸の埋め立て地が目の前まで迫って来ていて黒船が通るスペースもなさそうだし、今ここで大砲をぶっ放してもせいぜい目の前のFANCLか佐川急便を破壊するだけだろう。
旧東海道に戻って浜川橋を渡る。
この橋は泪橋とも呼ばれていた。
この先の鈴ヶ森刑場に連れて行かれる罪人がここで家族と涙ながらに別れたことに由来する。
2:02PM、旧東海道が第一京浜と合流する地点にその鈴ヶ森刑場があった。
はりつけにする木を固定した石材や八百屋お七を火あぶりにする鉄柱を固定した石材といったおぞましい遺構が残っている。
大都会の幹線道路の脇にこんなおどろおどろしいスポットがあろうとは。
第一京浜と合流した旧東海道は一旦左に分岐するもののすぐにまた合流する。
そこからは延々とこのだだっ広い幹線道路を歩く。
そろそろ疲れて来て休憩したかったが、休めるようなところはまるで見当たらない。
品川宿にあれほどあった寺社の類も全く消え失せた。
これはつらい。
3:44PM、六郷橋のたもとに着いた。
多摩川の河川敷に下りる階段でやっと休憩をとることができた。
4:04PM、六郷橋を渡って神奈川県川崎市に入った。
といってもまだ相模の国に入ったわけではない。
まだしばらく武蔵の国が続く。
橋を渡り切ったところで河原まで出てみる。
ここには六郷の渡し場があったというのでその痕跡を探してみた。
すると対岸の東京側にコンクリートで補強された石垣の桟橋らしき物が川に突き出している。
それが渡しの跡かどうかは確認できなかったがそれらしい遺構ではある。
その上ではトッポい感じの若者達がたむろしている。
4:10PM、夕暮れの川崎宿に入った。
街道時代は大いに栄えたという川崎宿も都市化が進み、往時の面影は認められない。
田中本陣跡の前には街道歩きの団体が陣取っている。
その団体が去ってからそこにあった説明板を読むと、このあたりは砂浜の低地だったため東海道は微高地を通し、宿場の開設にあたっては盛り土でかさ上げしたそうだ。
旧東海道が川崎駅前を通る県道9号線と交差する所で今日の歩きを終えて駅に向かった。