川崎~(新子安駅)2010.3.20
10:23AM、川崎駅前から南下する道が旧東海道と交差する所から今日の街道歩きを始める。
何の変哲もない都会の道だ。
佐藤本陣の跡は現在銀行になっている。
20分ほど歩くとお花畑のようなスペースに芭蕉の句碑が建っている。
元禄7年(1694)5月、江戸から郷里の伊賀へと旅立つ芭蕉と見送りの弟子たちがここで句を詠み合って別れた。
その時の芭蕉の句
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
にちなんで‟麦の別れ”と呼ばれる場面だ。
芭蕉はこの年の10月に上方で亡くなるのでこれが関東での最後の別れとなった。
11:06AM、今は小さな祠が建っている市場一里塚跡を通過。
20分後、鶴見川で休憩する。
往時のこの辺りは富士や箱根が見渡せる景勝地だった。
現在では都市化が進み、富士も箱根も見ることはできない。
それでも河原には菜の花が咲き乱れ、水面は3月の陽光を反射してきらめいている。
休憩を切り上げて鶴見川橋を渡るとそこに幕末期に設置された鶴見川橋関門の跡がある。
安政6年(1859)の横浜開港と共に攘夷派の異人斬りを警戒するために設けられた関門だ。
しかしいくら関門を造ったところで大名行列の一行が外国人を斬ってしまうのは防ぎようがない。
生麦事件のことだ。
今日はこれからその現場を通る。
鶴見駅前のサイゼリアでまったりと昼食をとり、隣接する商業施設で娘のおむつを替えて1:48PMに鶴見駅前から歩きを再開する。
ゴチャゴチャとした活気のある駅前の商店街だ。
2:46PM、街道脇に「生麦事件発生現場」という説明板を見つけた。
文久2年(1862)8月21日、江戸から薩摩に帰国する島津久光の一行と神奈川から江戸方面に向かう乗馬の英国人男女4人がこの地で遭遇する。
大名行列の中に乗馬で突っ込む形になった4人が薩摩の供侍に殺傷される生麦事件はこの地で起こった。
そこから10分足らずの民家の敷地内に「生麦事件参考館」があったので寄ってみた。
ここは地元の酒屋のご主人が私財を投じて収集した事件の関係資料を展示している。
中には殺されたリチャードソンの遺体の写真もあった。
恰幅のいい館長さんが事件の経過を説明してくれたので、それに基づいて事件現場を辿ってみた。
英国人4人が最初に斬りつけられたのがさっきの生麦事件発生現場だ。
深手を負ったリチャードソンは傷口を押さえながら神奈川方面に逃げようとしたが、途中で傷口から臓腑がポトリと落ちる。
その場所は現在ゴミ集積所になっていて「ゴミは分別しましょう」という注意書きが貼ってある。
さらに数100m逃げたところで力尽きたリチャードソンは落馬、追いついた薩摩藩士にメッタ斬りにされ絶命した。
その場所には現在「生麦事件之跡」という立て札の付いた祠のような石碑が建っている。
残る3人は命からがら逃げ延びた。
この事件の報復として英国と薩摩の間に戦争が起こり、しかしその戦争をきっかけに薩摩と英国が接近し薩摩の討幕路線を支援することになる。
つまり歴史を動かすことになる重要な事件がここで起こったのだ。
旧東海道はその後第一京浜に合流する。
4:34PM、新子安駅前交差点を今日のゴールとし、新子安駅前のジョナサンでコーヒーを飲んでから家路についた。