(新子安駅)~神奈川~保土ヶ谷2010.4.24
10:35AM、新子安駅前から歩き始める。
だだっ広い第一京浜を歩いているといつの間にか神奈川宿に入っていたらしく唐突に神奈川本陣跡が現れる。
現在はバイク屋になっている。
小さな橋を渡ると木材問屋の前にっここが青木本陣の跡地だという説明板があった。
神奈川宿にはさっき渡った川をはさんで、神奈川と青木という2件の本陣があった。
神奈川宿は街道を北にちょっとそれた所に寺町が広がっている。
その中の1軒、浄瀧寺は安政6年(1859)に伴って英国領事館が置かれた場所だ。
生麦事件当時も領事館だったはずだ。
11:29AM、旧東海道はやっと第一京浜を右にそれて宮前商店街に入る。
すぐ右手に現れるのが洲崎大伸だ。
その入り口付近にある説明板にこの地を描いた江戸名所図会が載っている。
それを見るとこのすぐ近くまで海が迫っていて、参道はそのまま船着き場まで伸びている。
今神社の反対側を見ると神社からの参道が真っすぐ伸びて第一京浜に突き当たっている。
その辺りが当時の海岸線だったらしい。
洲崎大神のすぐ近くにある普門寺は横浜開港時にはイギリス士官の宿舎にあてられていた。
さらに普門寺とほぼ敷地を接する形の甚行寺にはフランス公使館が置かれていた。
そしてJRの線路を渡り、並行する国道1号線の向こう側の崖の上にあるのが米国領事館が置かれた本覚寺だ。
石段を上って山門の手前で振り返って見る。
現在線路の向こうにビルが建ち並んでいる辺りがかつての海岸線だった。
当時は東海道から洲崎大神前の船着き場あたりまでが良く見渡せたことだろう。
米国総領事のハリスはここからの眺望でこの地を領事館に決めたらしい。
山門の前にはハリスの交渉相手であった岩瀬忠震を顕彰する石碑が建っている。
開明的な開国論者だった岩瀬は貿易による権益の独占こそが幕権立て直しの道だと考え、優柔不断な井伊直弼から巧みに言質を取り付けて通商条約締結にこぎつける。
しかしそのことが井伊の恨みを買ったのか、安政の大獄が始まると幕府関係者の中では真っ先に職を解かれ失意のうちに病没した。
ところで生麦事件で命からがら難を逃れた3人の英国人のうち2人は英国領事館ではなくここ本覚寺の米国領事館に駆け込んでいる。
英国領事館の方が近くにあったにもかかわらずだ。
前回訪れた生麦事件参考館の館長さんの話では、彼らは英国では禁止されている為替差益で利を得る商売をしていたからではないかということだった。
そして逃げ込んで来た彼らを治療したのが医師として来日していたヘボンだ。
僕らが小学校で習うあの‟ローマ字”、いわゆるヘボン式ローマ字ってやつを考案した人物だ。
今でもこうやってパソコンで日本語を打つ時にローマ字入力でお世話になっている。
偉大な人物がここにいたのだ。
本覚寺を出た旧東海道は中層マンションが両側に建ち並ぶ対面2車線の坂を上り始める。
その途中の左側に田中屋という料亭がある。
文久3年(1863)創業のこの店では坂本龍馬の妻だったお龍が龍馬死後の一時期働いていた。
その田中屋の脇の路地を見ると急激な下り階段になっている。
広重の浮世絵を見るとこの坂道の左側には茶屋が建ち並び、その背後は海岸線の崖になっている。
この階段はその名残だ。
12:33PM、そのすぐ先には幕末期に設けられた関門の跡があった。
前回見た鶴見川にあったのと同じやつだ。
その後旧東海道は坂を上ったり下ったりしながら環状1号線に合流する。
その道をしばらく歩いてからまた右にそれる。
1:12PM、その東海道から右に分岐する道が現れる。
八王子方面に向かう八王子道の追分だ。
幕末期には横浜から輸出する絹がこの道を通って運ばれたことから「絹の道」とも呼ばれた。
僕らも歩いたことがある、あの道がここにつながっているわけだ。
追分を過ぎると今どきあり得ないほど賑わっている商店街に入った。
洪福寺松原商店街だ。
まるで大みそかのアメ横のような商店街を抜けて交差する国道16号線沿いのロイヤルホストで昼食をとった。
2:33PM、歩きを再開するとすぐに保土ヶ谷宿江戸方見附跡の説明板があってここから保土ヶ谷宿に入る。
帷子川にかかる帷子橋を渡って天王町駅を突っ切ると駅前の公園に旧帷子橋の欄干だけがモニュメントとして残されている。
広重の浮世絵に描かれた帷子橋はここに架かっていたのだが、帷子川の流路が変わったためこのような形になっている。
公園を過ぎると商店街。
宿場をイメージさせる物は微妙に揺れる道筋以外には見当たらない。
3:04PM、保土ヶ谷駅前の問屋場跡で今日の歩きを終えて家路についた。