須原~野尻~(十二兼駅)2010.5.28
12:36PM、須原駅から歩き始める。
須原宿は元はもっと下流の沿岸にあったのだが、洪水で流されたために江戸中期にこの地に移転した。
往時は街道の中央を水路が通り裏山から湧き出る水が流れていた。
今でも宿場の至る所に丸太をくり抜いて水をためた水舟と呼ばれる水槽が置かれ、涼やかな水音をたてている。
宿場中ほどの本陣跡には往時の物ではないだろうが、旧い日本家屋が建っている。
またこのあたりから後方を振り返ると中央アルプスが屏風のようにそびえている。
この宿場では防御のため宿場内の街道が何か所か計画的に折れ曲がっている。
宿場内の定勝寺という寺は永享3年(1598)創建の古刹。
創建当初はもっと木曽川寄りにあったが度重なる洪水で流失し、慶長3年(1598)にこの地に再建された。
現在の建物は当時の物だが、城郭のような迫力がある。
定勝寺の先で街道は右に折れ曲がるとともに階段を下って一段低くなる。
そこには街道中央の水路が現存していて往時の雰囲気を色濃く残している。
ただし街道右側の家並みは軒並み工事中で、この先この景観がどうなるのか気になるところだ。
宿場を出て野尻に向けて歩く。
1:32PM、木曽の清水寺として知られる岩出観音堂の前を通過する。
5分ほど歩いてからそちらを振り返ると観音堂の背後に折り重なるように連なる木曽の山々と、頂上だけ顔をのぞかせる南アルプスという雄大な景観が見られる。
その先の旧中山道は木曽川ぎりぎりまでせり出すこんもりした山を左に大きく迂回する。
江戸初期は直進していたらしいが、木曽川の氾濫で通行できなくなってこの道筋になったものと思われる。
まず大島橋の手前で左折する。
正面に中央アルプスが見える。
水田の脇を歩く。
そして迂回が終わるころに左後方を振り返ると、背後の山すそから始まる緩斜面に広がる農地の緑と点在する集落が織りなす美しい田園風景が堪能できる。
迂回する山すその左の小集落を抜ける。
小川の脇を歩く。
この辺りには立場があったらしい。
そして迂回してきた旧中山道が木曽川べりをゆく国道19号線に合流する手前では御嶽山をおがむことができる。
迂回が始まってからここまで、素晴らしい道だった。
国道を歩く途中で振り返ると今度は中央アルプスが見える。
すぐ先の廃墟になったモーテル跡がかつての関山関所跡で、そのモーテルが建てたと思われる石碑がある。
そのすぐ先の道の駅大桑で休憩する。
道の駅は基本的にはドライバー向けの施設だが、僕ら街道を歩く人間にとっても本当にありがたい。
休めるだけでなくトイレ、食料、飲み物など必要な物が揃っている。
まさに現代の立場だ。
旧街道と国道が合流するあたりにどんどん作ってほしいものだ。
3:38PM、歩きを再開する。
4分ほどで国道から右に分岐する。
坂を上ったり下ったりを繰り返す。
4:03AM、路傍にお経を彫った大きな石碑が現れる。
ここは高札場の跡で、野尻宿の入り口でもある。
野尻宿は明治27年(1894)の大火であらかた焼けてしまったので往時の遺物は全く見当たらない。
しかし道幅や、沿道の民家のたたずまいに宿場時代の雰囲気を濃厚に残している。
街道は高札場跡で右に折れ曲がり、坂を下る。
その坂の途中に本陣跡があり、例によって「明治天皇御小休所」という巨大な石碑が建っている。
その後上り坂に転じ、右カーブ、左カーブを繰り返す。
これは外敵を防ぐために設けられた「七曲り」というらしい。
木曽路を歩いているとすれ違う小学生が「こんにちは」と挨拶してくれる。
野尻宿を出たところでも男の子が声をかけてくれた。
「どこまで行くの?」
「十二兼」
「遠い!」
そう、今日は十二兼駅まで歩く。
遠いといってもあと2kmちょっとだ。
この先の旧中山道は消失している区間が多いのでしばらくは無難に県道を歩く。
その県道が国道に合流した直後、左にそれる坂を上るとそれが途中から旧中山道になっている。
立場があったという十二兼集落で下りに転じ、熊野神社の前をかすめて国道に突き当たる。
ガイドブックではこのまま国道を突き抜けてその向こうにある旧道に合流することになっているのだが、国道の向こうは線路が通っていて踏切もない。
仕方なく国道を歩いて十二兼駅から木曽福島に行き、旅館さらしなやに宿泊した。