関ケ原~今須~柏原~醒井2023.3.18

夜通し車を走らせて10:00AMに東海道本線垂井駅前のコインパーキングに車を停める。
歩き始めるのは関ケ原からだが、関ケ原駅前には駐車場がないらしいのだ。
なので一駅手前の垂井に駐車したわけだ。
そして電車で関ケ原に移動してから歩き始める。

関ケ原駅

前回関ケ原まで歩いたのは2007年の2月。
16年前の記憶をたどりながら、前回のゴール地点(=今回のスタート地点)である八幡神社への道(北国脇往還)と旧中山道(現国道21号線)が交わるポイントを10:37AMに歩き始める。
天気は雨。

関ケ原宿を歩き始める

関ケ原宿に宿場の面影はほとんど見られなかった。
いつ宿場に入っていつ出たのかも判然としない。

関ケ原宿

恐らく宿場を出てすぐのあたりと思われる場所にに西首塚がある。
言うまでもなく関ケ原の戦いの戦死者を埋葬したものだ。
戦いの翌日に徳川家康が竹中重門に命じて造らせた。
ちなみに東首塚は関ケ原駅の北にある。

西首塚

そのすぐ先で国道から左斜めに分岐する道が現れる。
道筋も家並みの雰囲気も旧街道風情が濃厚だ。

旧道に見える道

スマートフォンのアプリ「中山道六十九次」はこの道を指し示している。
しかしずっと使っているガイドブック児玉幸多監修「中山道の歩き方」(学習研究社)ではこの少し先を左にそれることになっている。
ここは児玉先生に従って真っすぐ進むとすぐに左に折れ曲がって分岐する道が現れて「これより中山道」という案内板も建っている。
これで良かったらしい。

本来の旧中山道

その道はすぐにさっきの斜めの道に合流する。
そのあたりが不破関ふわのせき東城門ひがしきもんらしい。

不破関東城門跡あたり

”関ケ原”といえばもちろん関ケ原の戦いだが、もう一つ日本史上に天下を二分する戦いがあった。
壬申の乱。
天智天皇の子の大友皇子と、同じく天智天皇の弟の大海人皇子が天智天皇の死後に皇位を争った西暦672年の戦いだ。
吉野で蜂起した大海人皇子は即座に東国と西国を結ぶ要衝であるこの不破の地をおさえて東国の兵を掌握した。
それが決め手となって勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となる。
不破の地の重要性を身をもって認識していた天武は即位したその年の内にこの地に関を置く。
それが不破関である。

少し進むとこちらに関の関庁跡があるという案内板がある。
それに従って民家の間の路地を進む。
塀もなく、写真を撮るのがはばかれるほど民家が両側に接する路地を抜けると小さな畑の中に祠がある。
そのあたりが関庁の中心的な建物があった場所で、祠に祀られているのは壬申の乱の際に大海人皇子が兜を掛けた石だと伝わる兜掛石だ。

兜掛石

その左には大海人皇子が沓を脱いだという沓脱石もある。

沓脱石

街道に戻って少し進むと左手の福祉施設と思しき施設の敷地内に不破関守跡があるとの案内板があるので、遠慮しつつ入ってみると庭園の中に説明板があった。
それによるとこの一帯が関守の屋敷跡だそうだ。

不破関守跡

そしてそのすぐ先右側が関守の宿舎跡だったらしい。
そこは藤古川の河岸段丘上となっていて中山道(当時は東山道)が見下ろせる。
絶好の立地と言えるだろう。

関守の宿舎跡から街道を見下ろす

河岸段丘の坂道をジグザグに下って藤古川を渡る。
往時は関の藤川と呼ばれたこの川が不破関の西限だった。
壬申の乱はこの小さな川を挟んで開戦した。

藤古川

川を渡ると今度は上り坂だ。
歩くにはきつかったりするが、やはり坂あってこその中山道だ。
道筋や沿道の家屋の佇まいに街道風情が濃厚に感じられる。

坂を上る

坂を上り切って国道21号線を横断すると雰囲気のある集落に入る。

右手の若宮八幡神社への石段の先に大谷吉継の墓と陣跡があるそうだが、ここで脚と時間を使うのは惜しいので素通りした。

若宮八幡神社への石段

3分ほど歩いた先にある説明板によると、ここは関ケ原宿と今須宿の中間地点にあたり、休憩施設の立場茶屋などが置かれ俗にあいの宿山中と呼ばれていた。

間の宿山中

関ケ原と今須の距離は約4km。
間の宿が必要だろうかという疑問もあるが、それ以上に現在11:28AM、50分かけてたった2kmしか進んでいないことの衝撃の方が大きい。
今日はできれば14km歩くつもりなのだが大丈夫だろうか?

街道の左手には黒血川という小さな川が流れている。
ここは壬申の乱の激戦地で、両軍兵士の血で川底の岩石が黒く染まったことからこの恐ろしい名が付いたそうだ。

黒血川

その黒血川に、高低差5mの鶯の滝が流れ込んでいる。
水量豊かで、年中鶯の鳴く街道の名物であった。

鶯の滝

東海道本線のガードをくぐると、濃いピンクの花(木瓜か)が咲くこれまた雰囲気のある集落に入る。

そこに常盤御前の墓がある。
常盤御前とは源義経の母親だ。
伝説では東国に走った義経の身を案じてここまで追って来た常盤は土賊に襲われてこの地で息を引き取る。
哀れに思った里人がここに葬って塚を築いたという。

常盤御前の墓

そのすぐ先、街道右手には常盤地蔵なる物もある。
伝説の真偽は判じ難いが、塚も地蔵も地元の人によって丁寧に管理されていることが見て取れた。

常盤地蔵

街道は東海道本線を左に見下ろしながら坂を上る。
今須峠だ。
往時は茶店があって賑わっていたという今は寂しい峠を越えて下り坂に差し掛かるとその先に集落が見えて来る。

今須峠

峠を下りると国道21号線に合流し、復元された一里塚に差し掛かる。

復元された一里塚

そのすぐ先で国道から左にそれて今須宿に入る。

今須宿に入る 黄色い建物のあたりが本陣跡

関ケ原の戦いで勝利した家康はその翌日、三成の居城である佐和山城を攻める際この地で休息した。
その時腰かけた石が宿場のはずれの妙応寺境内にあるとの説明板を読み、わざわざそこまで見に行くほどでもないだろうと考えて通り過ぎた。
しかし後でガイドブックの地図と照らし合わせると、その説明板のあった場所が今須宿の本陣跡のようだった。

そのすぐ先右手の問屋場跡には美濃十六宿で唯一現存する問屋場の建物がその威容を見せている。

問屋場跡

ただそれ以外に宿場時代の名残のような物はほとんど見当たらなかった。
ただ微妙にくねる道筋や家並みにわずかに宿場の雰囲気を感じることはできる。

今須宿

宿場を出ると今歩いている舗装道路の左手に並行するような土の坂道が現れる。
これは車返しの坂だ。
南北朝の昔、不破関の破れた屋根から漏れる月明かりが面白いと聞いた公家の二条良基がそれを見ようと都から不破に向かう途中ここまで来たところで、屋根が修理されたと聞いて車を引き返したという伝説からこの名が付いた。

車返しの坂

坂を下って踏切を渡ると芭蕉の句碑が建つ一角があり、そのすぐ先に美濃と近江の国境が現れる。
小公園の中の小さな溝が国境線だ。

美濃と近江の国境

この溝を挟んで両国の番所や旅籠が建ち並び、「寝ながら壁越しに他国の人と語り合えた」ことからこの地は寝物語の里と呼ばれていた。
他にも源義朝を追って来た常盤御前が隣の宿の話し声から義朝の家来と再会できたとか、源義経を追って来た静御前が家来と再会したとかの由来があるらしいが、この艶めいた呼び名からするともっと別の由来があるような気もする。

寝物語の里

いずれにしろ、いよいよ中山道も終盤の近江路だ。

近江に入ってから1kmほどで踏切を渡る。
渡ったところで街道を左にそれて国道21号線沿いの「紅梅園」という中華料理店で昼食をとる。
安くてボリューム満点だ。

紅梅園

2:00PM、街道に戻って歩き始める。
すぐに右手に東見附跡があって近江路最初の宿場、柏原宿に入る。

東見附跡

旧旅籠の屋号を掲げた民家を何軒か見た後、街道右手に問屋場跡がある。
建物の風格から見て往時の建物だろう。
美濃では最後にやっと1軒あった現存問屋建築が近江では早くも見つかった。

問屋場跡

その先にも旧旅籠や造り酒屋が往時の雰囲気を残した姿で残っている。

造り酒屋

街道は宿場の中を緩やかに左カーブしながら緩く下って行く。

本陣跡には新しい建物が建っているが、宿場の景観に配慮した外観になっている。
この本陣跡には和宮が宿泊している。

本陣跡

その先の街道左手には柏原名物のもぐさを商う伊吹堂亀屋左京が往時のままの看板を掲げて現存している。

左手前が伊吹堂亀屋左京

宿場の出口手前には脇本陣と旅籠の中間的な位置づけの郷宿ごうやどという宿泊施設が往時の姿で残っている。

郷宿跡

柏原宿は往時の建物がふんだんに残り、宿場風情が濃厚に感じられる宿場だった。
ただ、徳川三代将軍家光が建てたという将軍専用の宿泊施設である御茶屋御殿跡は見つけられなかった。

柏原宿

2:41PM、復元された柏原の一里塚跡を通過。

柏原一里塚跡

3分後、柏原宿の西見附跡の説明板が左手に現れる。
沿道の民家はとっくに途切れているので宿場はもう出たものと思っていたが、ここが西側の出口だということになる。

西見附跡

3:00PM、右に分岐して林の中に入って行く土の道が現れる。
本来の中山道はこちららしいのだが、林の入り口付近で行き止まりになっているので仕方なく直進する。
またここは、小川こかわの関という中世の関所跡でもある。

小川の関跡

鄙びた集落を縫うように通る街道を醒井に向かって歩く。

醒井に向かう旧中山道

一旦国道21号線に合流し、また左に分岐したところにある八幡神社のあたりで、国道沿いのコンビニまで行ってトイレを借りる。

八幡神社の前

国道から分岐した旧道が高速道路の法面沿いになってしばらくすると右旋回しながら坂を下って左に折れる。
これが醒井さめがい宿入口の桝形だ。

桝形

宿場に入って5分ほどのところにある加茂神社の前で湧いている美しい泉が居醒めの清水だ。
『日本書紀』によると伊吹山で山神に惑わされて正気を失った日本武尊やまとたけるのみことがこの泉の水を飲んで正気を取り戻したことからその泉を「居醒井いさめがい」と名付けた。
その泉こそがこの醒井宿の泉だそうだ。

居醒めの清水

宿場にはこの泉を水源とする地蔵川が街道左手を流れていてその透明さが清冽な印象を残す。

地蔵川

宿場中ほどには問屋を務めた川口家住宅が公開されている。

川口家住宅

この建物、ガイドブックでは‟復元”となっているが、現地説明板では‟唯一軒残された貴重な建物”となっている。
実際に見た印象では‟可能な限り元の建材を用いて復元”しているように見えた。

川口家住宅内部

この他に宿場内に旧い建物はあまり無いようだが、こじんまりとした美しい宿場だった。
宿場のほとんどが高速道路の法面下なのが玉にキズではあるのだが、その高速道路を目一杯活用して街道歩き旅をやっているのだから文句は言えまい。

醒井宿

4:38PM、醒ヶ井駅に向かう道と交差する地点で今日の歩き旅を終え、駅に向かった。
今日一日、山あり谷あり、宿場あり、歴史あり、まさに‟私が愛した中山道”がそこにあった。


【前へ】【次へ】


Follow me!